406  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:13:35  ID:???  



「分隊長」  
「なんだね?」  
「我々が相手と格闘になったら、間違っても援護射撃はしないでください」  
「……分かった」  

霧に視界を奪われた世界で、ルールカとセティス、そしてレプと柴田は不審者の捕獲を試みようとしていた。  
微かに水玉を載せた草に身を潜め、風がそよぎ、草がざわつく音に紛れて慎重に匍匐前進する。  
トーチカから出てしばらく進んだところで、柴田とレプを後詰めに、ルールカとセティスで先行し、相手を捕獲することをなった。  
この霧の中では、柴田は足手纏いだし、ルールカの性格上、危険な目に遭わせたくなかったのかもしれない。  
足手纏いの柴田が捕獲班に入っているのは、柴田がどうしてもトーチカ内で待っていることができないと珍しく主張したからだった。  
そして分隊長が陣頭指揮を執るという、もっともらしい理由でついてきたのだ。  
ルールカが、レプを捕獲班にアサインしたのが、理由だった。  
その時、ルールカは、何かレプに関して特別な何かを知っているようだった。  
レプ自身、それを承知しているようにさえ見える。  
それがなんなのか、知りたくもあったし、ただ自分勝手に、レプを危険な目に遭わせたくないという思いもあった。  
こんなに積極的になったのも、また久しぶりだった。  



407  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:14:13  ID:???  


「……では」  

そんな柴田を知ってか知らずか、ルールカは穏やかでも険しいわけでもない、  
どこか能面のような魂の宿らぬ表情で、セティスを従えて霧の中に消えていった。  
あの表情は、彼の緊張の現れであることは想像に難くない。  
柴田は生唾を呑み込んだ。  
風にそよぐ草の音のみの世界になった途端、異常なほど時間が長く感じられるようになった。  
腕時計を確認し、彼らの背中が見えなくなって一分しか経過していないことに苛立つ。  

「ぶんたいちょ」  

レプがそっと柴田の袖を引っ張った。  

「なんだ?」  

振り返るとレプはヘルメットを脱いでいた。  
紅い髪から犬耳がぴょこりと二つ、まるでレーダーのように前を向いて立っている。  
彼はそっと目を閉じて耳を澄ましているようだった。  
どうやらレプは聴覚に優れているようだ。  
ルールカが彼をアサインしたのはこのためなのだろうか。  



408  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:15:07  ID:???  

「……様子がおかしいわぅ」  
「何?」  

柴田は最悪の事態を予想した。  
まさか、返り討ちにでも!  

「言い争う声が聞こえるんです……」  

柴田の驚愕の表情に気付いたレプが、誤解を解くように付け加えた。  
言い争う声?  
柴田も耳を澄ますと、確かに、ほんの少しだが、人の声らしいものが聞こえる。  
ここで待っていろとルールカに言われたものの、不測事態であれば臨機応変に動くべきだろう。  
柴田はレプにそう話すと、小銃で再び藪こぎを始めた。  
そして五分ほど経った頃、ようやくルールカ達の姿を発見した。  
幸い、無事のようだ。  
安堵のため息を漏らし、柴田は駆け寄る。  



409  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:15:59  ID:???  

と、  

「俺は敵じゃねえぞ!  援軍だぁー!」  

柴田とレプは、顔を見合わせた。  
目の前で、ロープで鮮やかなほど見事に縛り上げられ転がされている二つの物体に、思わず思考停止に陥ってしまったのだ。  

「暴れ回るので難儀しました」  

呆れた様子で話すルールカを見上げ、捕縛された男が吠える。  

「お前バッカじゃねえの!?  俺のどこが大陸人に見えるんだよ!?」  

柴田はようやく思考が正常に戻った頭で、今の状況を確認した。  
この男、本人が言う通り、確かに顔は日本人のようだ。よく見るとかなり若い。まだ二十歳にもなっていないだろう。  
顔は確かに日本人だが、しかし、この男は今、顔に迷彩ドーランを塗りたくっており、  
果たして本当に黄色人種の肌の色をしているのかは分からなかった。  
服装は陸自の迷彩服姿。ルールカ達にひっぺがされたのか、鉄帽や戦闘装具、そして小銃などは離れた場所に纏めておかれていた。  
これを見るに、男は日本人、それも自衛官であることはどうやら間違いではなさそうだ。  
そしてどうやってこの高地にやってきたかは、もう一人の捕縛された者が暗に説明していた。  



410  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:16:40  ID:???  


「……ったく陸自の連中は話が通じないから嫌だぜ。用意周到頑迷堅固とはいったもんだ」  

ハスキーな女性の声だった。  
着剣した小銃をセティスに突きつけられた状態で、不適な笑みを浮かべて彼を見上げている。  
はっとするような美女だった。年齢は二四、五歳くらいだろうか。  
切れ長の瞳が白銀のような神秘性に満ちた輝きを宿し、  
同じ色と鮮やかな光沢を持つ長髪が、草露に濡れた頬に張り付いているのが、その強気そうな貌達と相まって野性的な美しさを醸し出していた。  
捕縛され銃をつきつけられていることに動じた様子もなく、皮肉めいた言葉を口にすることからも、強気な性格がうかがえる。  
だが、柴田が目を見張ったのは女の美貌ではなかった。  

「わぁう!?  鳥さんみたいわぅ!」  

レプが思ったことをそのまま口にしていた。  
そう、女の背中には、純白の巨大な翼≠ェ生えていたのだ。  
背負ったりしている装飾品ではない。本当に身体の一部として存在しているのだ。  
これで飛んで来たというのか。  
柴田はしばし呆然と、畳まれた状態の翼を凝視していたが、ようやく我に返ってルールカに尋ねた。  



411  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:17:31  ID:???  


「か、彼らはいったい?」  
「増援が来るなど聞いておりません。もしかしたら、日本人によく似た人間を変装させて潜入させる作戦だったのかもしれません」  

ルールカは二人の間抜けな姿に呆れつつも、油断のない視線で監視しながらそう答えた。  

「かぁー。アッタマ硬えなぁ。そんなだから陸自は人気ないんだよ」  

平然と陸自の人間が聞けば怒り出しそうな台詞を言ってのけながら、彼女は続いて自分同様に縛られている男の方に顔を向けた。  

「……その陸自のあんちゃんの熱意に負けて命令違反して飛んできたら、とっつかまってスパイ扱いたぁねぇ」  
「ああ悪かったよ!  全部俺のせいだ!」  

皮肉たっぷりに言う女の様子に、その場の隊員らが互いに顔を見合わせた。  
どうもこの二人は、本当にスパイなどではないような気が柴田にはした。  
なんというか、会話が日本人らしいのだ。  
この大陸の人間で、こんな調子の軽口を叩く人間はあまりいないだろう。  
しかも、翼の女性に関しては、日本人でさえほとんど知らないであろう陸海空の自衛隊を皮肉った熟語まで口にしている。  
いくらスパイでも、そんな下らないことまで知識を持っているとは考えにくかった。  



412  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:18:19  ID:???  


「命令違反?」  

その場の代表として柴田は彼に顔を近づける。  

「ああ。実はちょっとワケありで……ん?」  

柴田を見上げた男が、柴田の後ろに立つルールカらを改めて見て、突然表情が変わった。  

「あ、あれ?」  

当のルールカも、いやセティスまでが、黒塗りの男の顔を再確認して驚きの表情を浮かべる。  

「お前、ルールカじゃねえか?」  

柴田は男の言葉に驚きを隠せなかった。  
まさか、知り合いなのか?  
疑問が顔に出ていたのか、ルールカが慌てて柴田に説明した。  

「か、彼は教育隊の自分らの同期です」  

彼にしては珍しく、説明する様子に戸惑いが感じられた。  
説明を受けた柴田も、信じられない思いで再び男を、いや、部下の同期というのだから少年に近い年齢であろう男を凝視した。  
男は身をよじって喜びと興奮を表現するように叫んだ。  



413  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:19:06  ID:???  


「あっははぁ!  こりゃ好都合だ」  

「なんでもいいから早く縄ほどいてくれよ陸自さんよぉー」  

思わぬ展開に狼狽しながらも、セティスが銃剣で縄をすぐに解いてやる。  
自由の身になった男は、地面に転がったせいで濡れてしまった迷彩服を気持ち悪そうにつまみながら、安堵のため息を一つつく。  
一方、翼の女性は、その天使のような翼を思い切り伸ばした。鳥の屈伸のようだった。  
そして、畳まれていて今まで分からなかったが、その純白の翼の中央には、赤く丸い模様が染められていた。  
日の丸だった。  
丁寧なことに、認識番号らしき数桁の数字と、JASDF、とアルファベットも翼の小脇に小さく塗られている。  
まるで人型のゼロ戦だな、と柴田は感じた。  
自分達とは存在を異にする天使のような外見と、空自のグレーの作業服と装備、そしてその日の丸が、ミスマッチで、生々しい。  
何見てんだ、見せ物じゃねえぞ、と視線に込めた女がじろりと柴田を睨み、慌てて目を逸らす。  

「タカアキっ!」  

柴田が女の翼に目を奪われていると、悲鳴のような声を上げてレプが男に駆け寄っていった。  
何事かと柴田が視線を転じた時、男とレプは固く抱擁しあっていた。  
そして、レプがまるで幼子のような、我を忘れた様子で嗚咽する。  



414  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:19:44  ID:???  

「うあぁああぁ!  タカアキ……あぅ……タカ…あき」  
「馬っ鹿……泣く奴あるか」  

男がそんなレプをあやすように頭をくしゃくしゃと撫でている。  
男の瞳にも、うっすらと涙がたまっていた。  
柴田は理解した。  
バディと一緒に卒業したかった  
そうか……君なのだな。  
柴田は迷彩服姿の二人の少年の姿に、心の芯が温かく溶かされるような安心感を抱いた。  
みっともなく涙を流す二人の姿が、三十五年前の、自分とそのバディに重なる。  
輝ける未来もなく、幸せな過去もないけれど、不器用で、必死になって今をあがいていたあの頃の二人に。  
柴田はなんとなく、男の様子に、何故彼がこんな戦場に飛び込んできたのか、分かったような気がした。  
理由などないのだ。  
ただ、仲間を見捨てられなかった。  
赤の他人のためになど、と現代の日本人の多くには、理解されぬ絆≠ニいう感覚。  
信じることが幻となってしまったあの国で、数少ないはみ出し者≠フ一人。  
それが、レプのバディなのだ。  
柴田は、レプが泣きやむまで、男が彼の頭を撫でるのを止めるまで、ただじっと、その光景を眺めていた。  




415  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:20:24  ID:???  





「二等陸士竹内孝明!  本日をもって、異種族部隊に編入を希望しますっ!」  

トーチカの中でそう自分に申告したレプのバディに、部下達、つまりこの少年の同期達から大きな拍手と歓声が上がった。  

「……今更、追い返すわけにもいかないしな。承認する。ようこそ」  

他に応えるべき言葉が見つからなかった。  
彼はきっと、漠然とであろうとも死の覚悟さえしてきているはずだ。かつて、助教に食って掛かった自分がそうだったように。  
そんな人間に、何かを偉そうに命令できるほど、自分は度胸はなかった。  



416  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:21:36  ID:???  


「で、空自さんはどうしますか?」  

もう一方の珍客である、見た目の神秘さとは裏腹に、随分と口の悪い航空自衛隊所属のハーピィとかいう異種族の隊員に尋ねる。  

「空自さんじゃねえ、フェチカ二等空士だ」  

こちらを陸自と呼び捨てにする割には自分の名前にはうるさいらしい。  
勇猛果敢支離滅裂。陸自とどっこいどっこいだ、と柴田は思ったが、口には出さないでおく。  
しかし、大抵の異種族隊員は日本人に対して最低限の敬意は払うものだが、  
曹長の柴田にタメ口をきくあたり、ある意味彼女は強者かもしれない。  
あるいは、自分が敬意を払う価値さえない存在だと思われているのか。  
そのフェチカは翼が狭いトーチカ内では邪魔なのか、かなり居心地が悪そうだった。  
そのせいで眉間に皺を寄せているようだが、美人なのでそれでも絵になる。  
むさ苦しい戦場には不釣り合いな存在だった。  




417  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:23:01  ID:???  


「空自のハーピィ部隊がなんでまた我が盟友タカアキ殿を運んだりしたのだ?  それもたった一人で……」  

セティスが質問すると、ああん、と彼女は胡乱(うろん)気な目つきで振り向く。  

「……あんたのその盟友さんから聞きな」  
「なっ!?」  

ぷいっとぶっきらぼうにそっぽを向くフェチカに、セティスのこめかみに青筋が浮かぶ。  

「まぁまぁ」  

慌てて竹内が割って入り、説明する。  

「まぁなんだ、要するに、俺、脱走してきたんだよ」  

あらかた予想していた答えだった。  
そもそも日本人隊員を撤収させたここに、たった一人新隊員を送り込んでくるわけがないのだ。  
なにかしら想定外の存在であることは想像に難くない。  



418  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:23:47  ID:???  


「んで、無理言って俺を運んできてもらったのが……」  

「この無礼なハーピィというわけだな」  

セティスが鋭い目つきでフェチカを睨む。  
彼女はそんな彼に中指を立て、激昂するのを見て喉の奥でくっくと笑っている。  
口だけでなく、それに比例して性格も歪んでいるようだった。  

「あーあ、無理だったぜ。武装した男一人を百キロも飛んで運んできたんだ。  
あたしが質量軽減魔法と風の精霊魔法を使えなかったら無理もいいとこだった。  
そんな苦労までしてあたしは帰還すればどんな処罰が待ってるのやらね」  

皮肉たっぷりに鼻で笑い、弾薬箱の上に足を組んで腰を下ろしている彼女に、  
竹内はさすがに命令違反な上に危険な場所に運んできてくれたことに負い目を感じているのか、ひたすら手を合わせて謝るばかりだった。  
そして、こんな性格の悪い、言い換えればはみ出し者≠ナなければ、こんな場所へ行動を共にしてくれはしなかったのだろう。  
考えていて柴田は少し楽しくなってしまった。  
ここにいる連中は皆、日本の普通≠ゥら逸脱した者ばかりだ。  
全てを失った自分に、そもそも日本人ですらない隊員達、そして、その仲間を見捨てられずに自ら死地へ飛び込んできた少年。  
しかし、それがむしろ柴田には心地よかった。  
ここには、目的を同じくした者しかいないのだ。例えようのない一体感のようなものがある。  



419  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:24:50  ID:???  

個人主義全盛の時代、こんな場所は危険な新興宗教でもない限り、ないのではないか。  
さかしまにいえば、そんな一体感や安心感がないのが、今の日本という国なのだ。  
絆≠フ消失した国。  
戦後の教育、失われた十年と様々に言われているが、  
一番の原因は、日本人そのものが、武士道や恥の概念という精神的支柱を捨ててしまったからだ。  
欧米人でさえ、統計で結婚に必要なものの一番に男女とも愛≠ニ答えたが、日本人は経済力≠セった。  
今の日本国民全員が共通する思想は、金だけなのだ。それ以外が信じられない者も多い。  
金が人間の価値さえ決めてしまう。勝ち組、負け組と。  
ホームレスを殺害する少年達も、金を持っていない人間は人としての価値がないという深層心理が働いている。  
人間の尊厳というものさえ、今の日本では金の前では無力だ。金で全てが買える。本気でそう信じている。  
金以外の真実を知らない人間達。  
だが、異種族隊員らは、祖国への忠義ため。竹内は、仲間との絆のために。  
金も、血のつながりもない。  
多くの日本人からしてみれば、全く理解できない愚か者なのかもしれない。事実、そうなのかもしれない。  
だがそれでも、自分の信じるもののために全てをかけているのだ。  
後悔など、していない。  



420  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:25:45  ID:???  

そう、山下を救うために殺されかけたのも、後悔なんてしなかった。  
あそこで死んでいても、自分は後悔しなかったんだ。  
今だって、そうだ。  
部下を生きて帰すことができれば、命なんていらない。  
そうして悔いなく死ねたとき、自分は、胸を張って地獄に堕ちていけるかもしれない。  
そうだな。きっと、そうだ。  
努……京香……。  
だから、天国から、この哀れな男を見守っていてくれ。  
そして、神様。  
もし、もしもおられるのなら。  
どうか……この健気な若者達を、お守りください。  
柴田はそっと瞑目した。  
だが、そのつかの間の平和を打ち消すように、司令部と有線されているマグ電話がけたたましい呼び出し音を鳴らした。  
封鎖しているわけではないが、設置してからほとんど使用されていなかっただけに、トーチカ内の皆が振り向いた。  




421  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:26:50  ID:???  


「はい。こちらポスト・スリー」  

柴田はすぐにその一昔前の黒塗りの受話器を取って交信ボタンを押し込んで話す。  
そして、日本人隊員がいなくなったため仕事が増えているのか、司令部の慌ただしい雑音混じりに、興奮した口調を柴田は聴いた。  
柴田は微かに震える手で受話器を置いた。  
静寂がトーチカを支配する。  

「分隊長。何と?」  

セティスの問いに、柴田はゆっくり振り向いて答えた。  
心なしか、その顔は青ざめている。  

「……総員、戦闘配置」  

全員が、柴田の発した言葉の意味を理解できなかった。  
柴田は、覚悟を決めたような顔に変わると、静かに、だが重く言葉を発した。  

「我が方の斥候が、敵の大部隊を発見、間もなくここへ到達するものと思われる。  
各部隊、徹底抗戦し、形勢不利であれば機を見て撤退。予備陣地に集合せよ、とのことだ」  

水を打ったような静けさだった。  



422  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:27:32  ID:???  

絶望的な状況下。いつか来るとは理解していても、  
心のどこかで何もおこらないでいてほしいと願っていたことが、遂にやってきてしまった。  
ややあって、皆は不安を押し殺した決意の表情を顔に貼り付け、互いに頷きあった。  



「いよいよ来ましたか」  

ルールカが機銃に取りつき、まだ霧の濃い下界をじっと睨む。  
そして、全部隊が銃口を外へ向けて待ちかまえる中、進撃を伝える角笛の朗々たる音色だけが、風に乗って微かに聞こえてきた。  
ひたすらに待つ。  
いや、実際はそう長く時間は経っていない。  
身体の中で、肺と心臓だけが生きているような、緊張のあまり全身の筋肉が硬直したような感覚に襲われる。  
そして、白い霧の中から、黒い影が少しずつ現れ始める。  
影は最初まるで亡霊のようにゆらゆらと実体の定かでない様子だったが、時間が経つにつれてはっきりとした輪郭を形作り始める。  
同時に、敵の興奮に満ちた荒々しい雄叫びも、また。  



423  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:30:05  ID:???  


「……召喚獣か!」  

セティスが忌々しげに呟く。  
柴田は双眼鏡を手に取ると、倍率を上げて敵兵の姿を観察する。  
人間の兵士は一人もいなかった。皆、醜い形相をした獣じみた、いやそれ以上の禍々しさをもった怪物達だ。  
そしてそれは、地を覆い尽くさんばかりの数で向かってきていた。  
まるで、悪夢を見ているような気持ちで、柴田は気持ちを静めようと深い呼吸を繰り返した。  

「ザコ揃いで助かる」  

ルールカが鼻で笑う。  
その様子に柴田は頼もしさを感じたが、彼の横顔を見つめると、顔は脂汗でびっしりだった。  
ここまでおおっぴらに前進してきているのだから、迎撃はたやすい。  
しかし敵に後続がいるとしたら、弾薬の消耗が激しくなるのは確実だ。  
そして何より、この霧の中では、精密な迫撃砲の支援が受けられないし、有視界距離でしか銃が撃てない。  
弾幕を張るほど弾薬に余裕がなく、見えている敵を片っ端から倒すしかないのだが、それは極めて効率の悪い戦い方だ。  
敵はそこまで見越して総攻撃を開始したのだろう。  
……今までの偵察や、本気とは思えない夜襲。  
柴田は異世界の軍隊のことを過小評価していたのに気付いた。  



424  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:31:26  ID:???  

風を切る鋭い音が聞こえてきた。  
大軍の中に、数本の火柱が上がる。  
迫撃砲が阻止砲撃を開始したようだ。  
しかし、と柴田は呻る。  

「ダメだ……力負けしてる」  

レプのバディ、竹内が呟く。  
柴田は叱責しようかとも思ったが、事実なのだからしょうがないと思い直す。  
激情に駆られて喚いているように思われても面倒だ。  
まるでチンピラのリーダーのような考え方だ、と柴田は少し嫌な気持ちになる。  
しかし、そもそも前線指揮官と町中のチンピラのリーダーも、  
少数のグループで戦い生き残るという共通の目的の下、学や定石に頼らずに状況を打破していかねばならない。  
違いは、戦闘服を着ている事と、雇い主が政府であることくらいなのかもしれない。  
現代戦で価値の向上した歩兵だが、この原始的な戦場では、その価値も逆戻りだ。チンピラ指揮官で上等なのかもしれない。  
暴力が全てを決する時、学歴や地位や老若男女は関係がなくなるのだから。  
何人にも等しく、ただ弱き者が死に、強き者が生き残る世界なのだから。  
迫撃砲は、竹内の言うとおり明らかに数と火力が不足していた。  
旧軍伝統の二点射撃などでその不足を補おうともしているようだが、焼け石に水に見える。  



425  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:32:52  ID:???  

敵は砲撃に動揺はしているようだが、退こうとはしない。  
督戦隊のようなものでも後方にいるのか、狂ったように向かってくる。  
距離はもう機銃の射程だった。  
ひきつけて命中率を上げ、弾薬の消費を抑えねばならないこちらにとっては、まだ少しだけ遠い。  
それに、霧がここでも障害となって敵を有利に導いている。  
敵の表情まで分かりそうな距離にまで近づいてやっと、本部から射撃命令が出た。  

「撃てぇ!」  

前線陣地で一斉に機銃が火を噴いた。  
斜面を凄まじい勢いで駆け上がって来ていた敵の前線が一気になぎ倒され、転がり落ちていく。  
引きつけられる限界まで引きつけておいたため、吐き出された銃弾はほとんど外れることなく敵をえぐり抜いた。  
機銃の連射に最前列がバタバタと倒れたため、勢いに乗っていた後続に混乱が生まれた。  
しかし、全体の勢いに押し出されるように、後続はまだ息のある味方を踏み殺すように突進を止めない。  
被害を度外視したような暴挙に等しい行動だった。  
いや、そもそも被害が出て当然という用兵なのかもしれない。  



426  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:34:30  ID:???  

柴田の陣地の機銃が、四百発ほど撃った頃に、銃身と機関部の加熱が原因か、作動不良を起こした。  
そもそも、この六二式機関銃は自衛隊史上最悪の兵器と悪名高く、本来ならMINIMI機関銃に世代交代されているべきものなのだ。  
四百発でも撃てただけでもマシだったのかもしれない。  
しかし、機関銃が使えなくなるということは、致命的なものだった。  
他の陣地でも機銃の音が聞こえなくなった。あちこちで機銃は故障しているようだ。  
そしてその火力不足は、敵のさらなる接近を許した。  
もう、止めるだけの火力はない。  
その時、どこかから拡声器で男の声が聞こえてきた。  

「総員、着剣っ!」  

それは異種族部隊指揮官、須田のものだった。  
本部から、最前線に移ってきたのだ。  
彼は、既に普通≠フ戦い方など遂行不能であることを悟った。  
もはや、武器となるのは、己の肉体と精神力のみ。  
須田の命令に、トーチカの中の全隊員は機銃を捨て、腰から銃剣を鞘走らせた。  
他の隊員同様に六四式の銃口に銃剣を取り付ける柴田は、馬鹿らし過ぎて、無意識の内に引きつった笑顔を浮かべていた。  
この二一世紀の時代に、白兵戦?  



427  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:36:04  ID:???  


「行くぞっ!」  

誰かの興奮した声に弾かれ、トーチカから隊員達が、巣穴からいぶり出されたアリの群れのように次々と飛び出していく。  
各々の手に、鈍く光る着剣した小銃を携え、草原に横隊に散開していく中、妖魔達が霧の中から湧き出るように現れ、視界を覆い尽くしていく。  
多い。なんて多さだ。  
柴田は初めて、本能的な恐怖を感じた。  
圧倒的な戦力差で、そして今自分の身を守る術は、この弾の十分ではない小銃と銃剣一本だけなのだ。  
現代戦にあるべき砲撃支援や航空支援は一切なく、生身一つで敵と刺し合わねばならない。  
怖い。怖くて気が狂いそうだ。  
柴田は歯を食いしばった。そして、部下の顔を見渡してみた。  
若い隊員らの顔は皆、狂ったように目が血走っている。  
レプでさえ、涙を流しながら、歯を食いしばって恐怖をねじ伏せて小銃を構えていた。  
その姿の痛々しさに、柴田は、初めて日本という国をはっきりと憎んだ。  
こんな子供を戦場に駆り出して、平和を享受している自分の国が、たまらなく醜いと感じた。  
客観的に見れば仕方がないことだとしても、納得がいかなかった。  
自分達の平和を守るために、異種族の若者を犠牲にしている国など……!  



428  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:37:22  ID:???  


「引きつけろ!  無駄弾を撃つな!」  

ルールカが距離が近づいてくる敵との距離を見極めながら叫ぶ。  

「目標正面の敵集団距離二百っ!  一斉射撃後、突撃するっ!」  

敵の姿がようやく見えたからか、歓喜のような声を上げ、ゴブリンなどの人型の敵が抜剣するのが見えた。  

「肩撃ち姿勢、射撃よぉーいっ!」  

教育隊で叩き込まれた突撃発起前の射撃姿勢の号令が鳴り響く。  

「撃てえぇ!」  

轟音が高地を震わせた。  
前方の敵がバタバタと倒れるが、それを踏み越えて敵は進撃を続ける。  
召喚獣である彼らは、退くという意志を持てないのだ。  
彼我の距離は百メートルを切った。  
一弾倉を撃ち尽くし、次の弾倉に入れ替える頃には、白兵距離に達していた。  
柴田の頭は、真っ白でもう何も考えられなくなっていた。  
パニックと恐怖と生存本能からくる闘争心による興奮による、ナチュラル・ハイの一種だった。  



429  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:38:43  ID:???  


「突撃にぃー!」  

肩撃ち姿勢から腰だめの刺突姿勢に持ちかえ、無数の銃剣が切っ先を敵に定める。  

「進めええぇ!」  

地を震わす雄叫びと共に横隊が一斉に動いた。  
こちらが動いたことで、彼我の距離が一気に縮まる。  
ゴブリンやコボルト、ガルムなどの混成軍団と、異種族混成の自衛隊。  
二つの異形の軍勢が、刃を交えんとしていた。  
そして高地を土石流のごとく駆け下る異種族隊員らの勢いは、衝突した瞬間に濁流となって弾けた。  
敵も、味方も、入り乱れ、そして、殺し合いが始まった。  
柴田はその瞬間、自分が何をしたのか認識できなかった。  
何か重いものがぶつかってきた。そんな感覚しか湧かなかった。  
頬になま暖かい鮮血が降りかかり、柴田は目の前の状況をようやく認識した。  
柴田の構えた小銃の銃剣が、ゴブリンの腹を刺し貫いていた。  
相手は信じられないといった表情でその銃剣を握り、カッと見開いた目で柴田を睨み付けていた。  
柴田は無意識に銃剣を引き抜こうとしたが、抜けなかった。肉が固まっているのだ。  
特に抵抗もなく、柴田はゴブリンを片足で蹴り飛ばすようにして無理矢理銃剣を引き抜いた。  
絶命したゴブリンの死体が草の上に仰向けに倒れ込むと同時に、周囲の状況に気がついた。  
そこは、原始的で、野蛮な世界だった。  



430  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:40:29  ID:???  

五人がかりで一人の異種族隊員が串刺しにされ、悲鳴を上げて助けを乞いていた。  
両目を切りつけられ、夢遊病患者のようにさまよう者もいた。  
幼い異種族隊員が、もう死んでいる敵に、何度も銃剣を突き立てている。  
悲鳴と怒声、散発的な銃声が鳴り響き、まるで悪鬼と化した者達が駆け回る、まさに地獄絵図だった。  
戦争。  
人間が、種族として誕生し、群れという概念を作り出した時代からこの世に存在していた殺し合い≠ニいう生存競争。  
今ここにあるのは、政治的でも思想的でもない、ただ単純な生と死の世界。  

「無闇に撃つなぁっ!  貫通して同士討ちになるぞっ!?」  
「散らばるな、かたまれ!」  
「もう弾がな……がはぁ!?」  

必死だった。  
皆、命の限りに戦っていた。  
生きたい。  
ただこの一心で。  
だが、敵の数は減らない。  
倒しても倒しても湧いて出てくるように新手がやってくる。  
最初は散発的だった銃声も、少しづつ消え始める。  
もう弾がなく、あってもリロードしている暇がないのだ。  



431  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:42:21  ID:???  

狂乱状態の戦場で、柴田は無意識にレプの姿を探していた。  
そして、ガルムに組み敷かれ、必死になって喉を食いちぎられまいともがいている彼の姿を発見する。  
柴田は突進すると、渾身の力を込めてガルムの横っ腹に銃剣をねじり込む。  
旧軍伝統の、現代の銃剣にしては異常なほど刃渡りの長い六四式銃剣は、ガルムの心臓まで達していた。  
断末魔の悲鳴も上げず即死したガルムの身体から這い出たレプが、涙と鼻水でひどい顔で柴田を見上げた。  

「ぶんたいちょ」  
「来るんだ!  私から絶対に離れちゃいけない!」  
「わ、わう!」  

レプが落としていた小銃を拾い上げる。  
その間にも、柴田は飛びかかってきたコボルトの頭を単発射撃で撃ち抜いていた。  
至近距離での七・六二ミリ弾の威力は、撃ち抜くなどという生やさしいものではなく、  
まるでスイカ割りのように頭を粉砕されたコボルトがひっくり返る。  
気付けば、数の差に圧倒され、柴田とレプの周囲には味方の姿がなくなっていた。  
十匹を超える敵に包囲され、二人は息を呑んだ。  



432  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:43:29  ID:???  

ホブ・ゴブリンらしき体格のいいゴブリンが野太く吠え、敵が一斉に二人に襲いかかろうとする。  
だが、次の瞬間、黒い旋風のような何かが敵を駆けめぐった。  
血煙を上げ、一瞬で敵の半分が崩れ落ちる。  
そして、それは二人を庇うように立ちふさがる。  

「ルールカ!?」  

柴田は目を見張った。  
そこには、小銃と戦闘装具を捨て、敵から奪い取った長剣と短剣を両手持ちに構える部下の姿があった。  

「撤退しましょう!  ここはもう保ちません!」  

言い放つと、柴田の返答も待たずに再び人間離れした素早さで敵に斬りかかる。  
柴田はもう躊躇わず、退路ができたのを見過ごさずにレプを促した。  
幸い、高地の奥へ行くほど霧は濃く、後退するには好都合だ。  
ドワーフ隊員の構築した予備陣地に駆け込めばいい。  
前線部隊はそうして、甚大な被害を出しつつ、遅滞行動をとり始めた。  



433  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:45:06  ID:???  


「ポスト・スリー!  撤退するぞ!  皆集まれ!」  
「無理です!  各個後退するしか!」  
「だが……あっ!?」  

柴田とレプ、そしてルールカは、自分達が一重二重と包囲されつつあるのに気付いた。  
味方はほとんど周囲にいなくなっていたのだ。  
退却の機を逸した。  
柴田はもたついた自分に歯ぎしりした。  
柴田とレプは小銃を四方に向け、敵を威嚇する。  
銃火器の威力を知ったのか、銃口を向けるだけでも敵はたたらを踏んだ。  
しかし、こんな威嚇で長く保つはずがないのは分かっていた。  

「……シバタ曹長」  
「ど、どうする?」  

だが、にじり寄ってくる敵を剣を構えて威圧するルールカは恐ろしいほど冷静だった。  



434  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:46:14  ID:???  


「私が血路を切り開きます。その隙にレプと突破してください」  
「だ、だが君はっ!?」  

焦燥の声に、ルールカが柴田に振り向いた。  
そして柴田は息を呑んだ。  
彼の顔は、敵の返り血でまるで阿修羅のごとき形相だったのだ。  
しかし、その顔の中で、どこか年相応の悪戯っぽい笑みがこぼれ落ちる。  

「大丈夫です。これくらいの状況は過去何度か経験していますから。死に急ぐ気はありませんよ」  

嘘だ、と柴田は直感した。  
彼の瞳には、迷いも恐れも見ることはできない。  
しかし、悲しみと慈しみの温かな炎が宿っていた。  
生き残ろうとする者が、こんな穏やかな目をするはずがないのだ。  
今の彼は決意と共に別れを悲しんでいるのだ。  
だが柴田は、今のこの状況を打破するための術も発想も持ち合わせていなかった。  
守ると決めたばかりなのに。自分はまた失ってしまうのか。  
また、何も守れないのか。  
これも罰なのか!?  




435  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:47:08  ID:???  


「いかんっ!  それは私の役目だ!」  

無我夢中で柴田は駆け寄ると、ルールカの肩を思い切り掴んだ。  
返り血とルールカ自身の血を吸った迷彩服が、ぬるりと手にへばりつくのも気にせず、柴田はルールカの顔を引き寄せる。  
間近で見ると、彼はまだやはり幼さが残っている。日本人なら、高校でまだ遊んでいてもおかしくはない少年の顔だ。  
こんな、子供達が、戦場に立っていること自体が、間違っている。  
死ぬ順番は、歳をとった者からでいい。  

「君はレプを頼む」  
「……冗談を」  
「冗談じゃない。君のような……息子のような歳の者を見捨てられない」  

ルールカの顔に、今まで見たことのない驚きの感情が浮かぶ。  
しかし、すぐにその驚きは、聞き分けのない上官への怒りに代わった。  

「あなたでは役不足です!  時間がないんです。早く……」  

ルールカが柴田の手を振りほどき、叫ぼうとした瞬間。  

「エネミィータリホゥー!」  

それは頭上で聞こえた。  
霧の高地に、高らかに、力強く。  
見上げると、薄暗い空に、光るような白い翼が広がっていた。  
両翼に、誇らしげに日の丸を描いた、一羽、いや……  



436  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:49:06  ID:???  


「ターゲット!」  

一機の、支援戦闘機のシルエット。  

「ワルキューレゼィロワン……ライフルッ!」  

死の宣告のような叫びと同時に、彼女の手にする二丁の六二式機関銃が、咆哮を上げた。  
雨のように降ってくる空薬莢の熱さに狼狽しながら、地上の三人は呆然と目の前で掃射されていく敵の姿を見つめる。  

「なにやってんだっ!  さっさと逃げな!  アタシの火力だって無限じゃねんだ!」  

撃ち尽くした六二式機銃を放り捨て、太股に縛り付けていた九ミリ機関拳銃を両手に、  
嵐のような掃射を続けるフェチカのハスキーボイスが耳に飛び込んでくる。  
マズルフラッシュに頬を朱に染めながら、戦場の空を舞い狂うように飛ぶフェチカは、神秘的で、そして野性的で、優美だった。  
戦女神。  
もしいたとしたら、こんな姿なのかもしれない。  
柴田は、今の状況をしばし忘れ、彼女の雄姿に見とれてしまう。  




437  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:50:32  ID:???  

「すまない!  だが……君は!?」  

「ハンっ!  この霧の中であたしに矢を当てられるような奴ぁいねえさ」  

彼女はにやりと笑うと、撃ち尽くした機関拳銃の片方を放り捨て片方をリロードし、  
腰から米軍の供与品とおもしき手榴弾を取り出すと、  
まるでバード・キスするように優しく安全ピンを口で引き抜き、翼をしならせ、敵の集団の頭上に舞う。  

「すまない!  頼む!」  

戦乙女を見送りながら、柴田は心の底から彼女に感謝した。  
爆音と機関拳銃の連射音に酔ったかのような恍惚とした笑みを浮かべながら、彼女は後退を始めた柴田たちに思い出したかのように叫ぶ。  

「ああん?  空自のあたしが陸自に近接航空支援の一つもしねえんじゃカッコつかねえだろ。  
タカビーなエルフも辛気くせえデックもドワーフの酒樽も、どいつもこいつも大嫌ぇで助けたかねえがよぉ!」  

機関拳銃をスリングで首から提げると、自由になった両手に纏めて四個の手榴弾を持つ。  
降りかかってくる矢を情熱的なジルバを踊るようにかわしながら、手榴弾を放り投げていく。  




438  名前:  元1だおー  2006/06/28(水)  15:52:04  ID:???  

「あたしもおめえらもニホンの自エー感だ。同じ穴のムジナさねっ!  同業者は大事にしねえとなぁ!」  

彼女が投擲した円筒形の手榴弾が炸裂し、周囲が炎に包まれる。  
通常の破片手榴弾ではない。おそらく米軍の焼夷手榴弾だ。  
天使のような姿の彼女の下では、まるで地獄の業火に焼かれているかのように火達磨になった召喚獣達が悲鳴を上げてのたうっている。  
彼女は逃げまどう眼下の敵に、口の端を歪めた笑みを浮かべながら機関拳銃を構え、容赦なく引き金を引く。  

「……あの女、素直に仲間って言葉使えないのか?」  

その常軌を逸した彼女の様子に、ルールカが呆れたように一言呟いた。  


<続く>  




813  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:16:42  ID:???  



本陣の最奥に位置する天幕に報告に足を運んだアイギスは、平伏し、恭しく今日の戦果を読み上げていた。  
天幕内は人払いがされており、アイギスと、目の前に座る人物以外に誰もいない。  
そう広くはなく、狭いともいえない天幕の中は、前線の野営地であることを差し引いても、殺風景なものだった。  
簡易の机と、一枚のユニコーンをあしらった軍旗がかけられている以外、目を引くものはほとんどない。  
四万を束ねる総大将が腰を据える場所とは到底思えない、とアイギスは入室した時から感じていた。  

「……以上、三つの丘の敵を撃退し占領致しました」  

報告を終え、顔を上げるよう指示を受け、彼はようやく目の前の人物の尊顔を拝することができた。  
彼は、努めて平静を装ったが、心の奥底で呻いた。  



814  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:17:19  ID:???  

背中まで流れる夜明けの湖畔のような澄んだラピスラズリの髪、  
そして幾多の戦場を写してきた、揺るぎない冷静さと勇猛さを奥に秘めた紅玉の瞳。  
最低限の装飾しか施していない、ミスリルの軽甲冑と、机に無造作に立てかけられている、身の丈ほどもある深紅の鞘に収まった剣。  
動と静の魅力を兼ね備えた、鮮麗なる姫将軍が、そこにいた。  
ロスーキ都市国家群、神聖守軍右将軍、アロウィナ・メレセーリア。  
二八歳にしてロスーキの歴史上、四万という最大規模の軍勢の将を任ぜられた、最強にして最高の武人。  
ロスーキ軍の平時の神聖守軍の常備軍総兵力三万の編成は、大きく分けて、右軍と左軍の二軍団に分けられる。  
左軍は、警察軍的な役割で、都の警備・治安維持などを平時においても担う。  
そして、右軍は、国境警備といった実質的な国防任務。二つの軍において、様々な面で右軍の優越が認められていた。  
右軍は神聖守軍の全体からすれば僅か六千名に過ぎないが、装備・練度共に選りすぐりで構成された精鋭部隊だった。  
兵の間でも、右軍に登用されることは実力を認められたというステータスである。  
その右軍を、事実上の神聖守軍を束ねる右将軍が、彼女なのだ。  
反帝国陣営であったロスーキにおいて、七回の帝国の侵略を撃退した武勲を知らぬ人間はいないほどだ。  



815  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:18:11  ID:???  

左軍の一員として十五歳の初陣で敵将の首級を上げ一躍注目を上げ、異例の右軍への登用と、下士官への昇格から彼女の伝説は始まる。  
隣国の危機に、教圏守護を目的とした光母神神聖守護軍に参加。  
絶望的とされた戦局を覆し、単身、敵将を捕縛。  
凱旋後、右軍・騎戦プレリュークス騎士団長に若干十六歳で就任。  
その後、ニホン出現の時まで、帝国の侵入を許さなかったロスーキの歴史は彼女無しには語れない。  
姫将軍メレーセリアと神格視され、戦いの現人神とされている。  
魔剣とも神剣とも呼ばれる伝説の剣、ドゥエールニアを手にした銅像が元老院議事堂前には立っているほどだ。  
アイギスも、此度の戦まで、実際に会ったことすらない雲の上の人物だった。  
いや、普通のロスーキ人にとっては、雲の上どころではない、文字通りの神≠ニ等しい。  




816  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:19:20  ID:???  


「捨て駒にしては上出来だ」  

静かだがよく通る声だった。  
苦笑とも、若干の皮肉ともとれる声音で、目の前の若き軍師に問いかける。  
アイギスは、その口調に安心した。  
どうやら、神の類ではないようだ。同じ人間が相手なら、やりやすい。  
それに、議事堂前に立っている雄々しい銅像よりは、頭の良さそうな雰囲気を彼女はまとっていた。  

「だろう?  クレルハーンの後継者殿」  

微笑を浮かべる姫将軍は、確かに神めいた魅力があるとアイギスは思った。  
不思議な気持ちだった。神仏を信じるような人間ではないと自分自身思っていたのだ。  

「……霧の濃い場所へ本隊を誘い込み反撃にでるための陽動である可能性も捨て切れません。まだ楽観は禁物です」  

アイギスの忌憚のない言葉に、アロウィナは苦笑した。  
おそらく、賛辞の一つも敵への侮蔑もない軍師を意外に感じたのだろう。  




817  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:20:12  ID:???  


「貴様の慎重さは病的だな。軍議でこそ静かだが左将軍などカンカンだったぞ?」  

アロウィナは、苦笑しながらも本心から楽しんでいるようだった。  

「ですが……」  
「よい。何も責めておるわけではない」  

軽く手で制し、彼女は一つ間を置いた。  
そして、その宝石のように輝く瞳を彼に向け、神妙に頷いた。  

「歴史上、表でも、そして裏でもクレルハーン家はそうして祖国を幾度となく救ってきた」  

彼女は息を呑むアイギスに軽く笑いかけ、机の上に手を組んで言った。  

「で、軍師殿はこの後どうすべきと考える?」  

今度はアイギスが意外に感じた。  
まさか、自分の意見を求めてくるとは思っていなかったのだ。  
良くて叱責、最悪解任されるとばかりだと。  
しかし、アイギスはチャンスを逃すほど鈍感な人間ではなかった。  
すぐに頭の中に整理しておいた、出す予定のなかった考えを口にする。  



818  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:21:11  ID:???  


「霧が晴れるのを待ち、本隊を送り込み、橋頭堡を確保した後、斥候を出し敵情を探ります」  

右将軍が眉間に皺を寄せた。  
武人を思わせる無骨さと、思慮深げな端正さを同居させた彼女の顔に、その皺は随分と生々しい印象のものだった。  

「……元老院は成果を急いておる。あまり時間はないぞ」  

右将軍は言葉を選ぶようにして静かに言った。  

「時間はあります。情報によれば、未だ新興国家群とニホン軍はにらみ合いを続けております。今は確実な戦果を得るべき時です」  

彼女は苦笑を浮かべた。  
アイギスは、その苦笑の意味するものが、若輩の純粋さに呆れたものであるように感じられた。  

「そういう問題ではない。貴様ほどの男が分からん話ではあるまい?」  

含んだ物言いは、どこか不機嫌そうだった。そして、不機嫌の原因はアイギスによるものではない。  



819  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:23:11  ID:???  

アイギスも薄々だが、感じる所はあった。  
今回の各所でのニホンへの武装蜂起は、大陸の手をあるべき者の手に取り返すという大義名分がある。  
しかし、それはあくまで大義名分。真の目的が別にある国は数多い。  
国民の不満を外へ逸らすためというのが大きな理由ではあるが、混乱に乗じて領土拡張や利権の獲得を狙う国もあるのだ。  
……そして、我が国もその一つだということか。  
おそらくは、高地のニホン軍を撃滅した後に隣国を併合するつもりなのだろう。  
理由はなんとでもなる。落ち延びたニホン兵の追撃・掃討とでも言えばレコンキスタを掲げるロスーキ軍を自国領土へ入れることを拒めない。  
その後は親日国家であったとでもデッチ上げれば、併合の理由としては事足りる。  
帝国の脅威のない今のこの大陸は、力の均衡の崩れた混乱の渦中にある。  
今まで、帝国という脅威とニホンという圧力があったために実行に移せなかった野望を叶えようというのだ。  
こういった国はこの大陸にまだ多くあるに違いない。  
ニホンが帝国を撃退していた頃は尻尾を振り、帝国と共倒れ状態になった途端に牙をむく。  



820  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:24:07  ID:???  

ニホンは、そこまで非道な国家であっただろうか?  
少なくとも、私利私欲のためだけに戦っていたとはアイギスは思えなかった。  
今向かい合っている敵とて、ニホンに受け入れてもらったことで恩を返そうと戦っている者達なのだ。  
スダ将軍の言葉を思い出す。  
彼は卑しき民達を部下≠ニ呼んだ。そして、その命を尊いとも。  
何の得にもならぬ流浪の民を受け入れ、捨て駒ではなく部下≠ニして戦列に加える国。  
そんな国が、この世界にあるだろうか?  
今、自分達は取り返しのつかない過ちを犯そうとしているのではないか?  
ニホンと共に、大陸をよりよくしていくという発想を、どうして誰も持てなかったのか?  
あの異世界の国には、どうしようもないと思えるこの世界を根底から変えてくれる、武力以外の力≠ェあったはずだ。  
覇者にも、愚者にもなりきれぬ国。それがニホンだ。短所であり、そして長所でもある。  




821  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:25:31  ID:???  


「敵はニホンだけではないのだよ」  

「……右将軍閣下。この大陸、我々の戦いのその先に、いったい何があるのでしょうね?」  

「それを決めるのは、我らの仕事ではない」  

ため息をつくように答える歴戦を戦い抜いてきた姫将軍の横顔は、  
救国の英雄、戦いの現人神という評判には似つかわしくない、どこか冷めた諦観を感じさせるものだった。  
深く詮索すべきではないと、アイギスは一礼すると、天幕を後にした。  
天幕を出ると、篝火の傍によく見知った顔があった。  

「アイギス様、メレセーリア右将軍閣下は何と?」  

緊張の面持ちで開口一番尋ねてくる若き騎士に苦笑し、彼は肩を竦めて言った。  

「時間がないから、早く敵を倒せってさ」  

半ば冗談のつもりの言葉だったが、彼女の真剣な瞳はそれを理解しなかった。  



822  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:27:17  ID:???  


「では、いよいよ?」  

詰め寄るように、彼女は尚も尋ねてくる。  

「仕方がないさ。閣下も、厳しい立場のお人だ」  

アイギスはため息を一つつくと、腰に手を当てて空を仰ぎ見た。  
満点の星空だった。そういえば、主都では光源祭も近い。戦勝祝いと相まって、例年にない盛り上がりを見せるかもしれない。  
だが、それはどこか歪なことにアイギスは思えた。  
世界の平和と万人の幸せを望んだ神の祭を、血を流した自らの業を祝う場にしてしまうのだから。  
だが、決壊したダムの奔流のように、流れ始めた歴史は自分にはもう止められない。  
諦めたのではなく、冷静に判断しての結論だった。  
帝国の侵略さえなくなれば大陸は平和になる。そう信じていた、ほんの数年前の自分が、随分と幼稚に思えてくる。  
アイギスは、今敵も自分と同じ星空を眺めているのだろうかと不意に気になった。  
彼らはいったい、今どんな気持ちなのだろうか。  
僅かな希望にすがっているのだろうか?  
絶望に打ち拉がれているのだろうか?  
それとも……  

「アイギス様?」  

ウェリカが心配そうに顔を覗き込んできていた。  
彼女の純粋な瞳が、アイギスには何故かひどく残酷な気がした。  





823  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:29:23  ID:???  




霧が一時的に晴れ、今は満点の星空が頭上に広がっていた。  
柴田は、今にも眠ってしまいそうな疲労感と闘いながら、  
もうこびりついた血も固まった銃剣を装着したままの小銃を手に、予備陣地の入り口に立って闇を睨んでいた。  
ここへやってくる者が敵か、味方かを誰何しなければならないのだ。  
この予備陣地だけでも、既に五十人を超える隊員が集合していた。  
内、半数は負傷している。  
せめて負傷者だけでも休ませてやらなければならない。人手が足りないのだ。  
重傷の者が一人、まだ二十歳にもなっていない兎族の若者が、十五分前に息を引き取った。  
失血と、それによる脱水症状、そして、急激な給水によるショック死だった。  
衛生隊員は、日本人隊員しかいなかった。つまり、傷を手当てできる人間は、もうこの部隊には一人もいない。  
水が欲しいと懇願するその若者に、うっかり水を与えたのが不味かったらしい。  
だが、水を与えた者を誰も責めようとはしなかった。  
全員が重傷者はもう助からないと、分かっていたからだった。  




824  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:31:14  ID:???  


「あのウサギのガキ、犬死にだな」  

隣で百円ライターを擦る音が聞こえた。  
単騎で敵の大軍と渡り合い、生き残ったハーピィの女が、血と硝煙に薄汚れた姿で座っていた。  
この予備陣地は、陣地というよりは掩蔽壕のような、太平洋戦争時の沖縄戦の防空壕のような構造で、  
外が見えるのは入り口のここだけだった。  
息がつまるから、ここへ煙草をふかしにやってきたというところだろう。  
汚れて使えなくなったのか、作業服の上着は脱いでいた。  
月明かりの下、銀髪と白磁のような白い肌が目に眩しい。  

「チッ……しけってやがる」  

彼女は端正な顔を不機嫌に歪め、くわえたセヴンスターを吐き捨てた。  

「止めろ。敵に発見される」  
「わーってるよ。あ、あと見張り後退してやらあ。ちょっち寝ときな」  

立てた親指で陣地内を指しながら、彼女が六四式小銃を肩に立てかける。  
すると彼女は顔をしかめ、その小銃を近くの草にこすりつけた。  
暗くて確認はできないが、草にはどす黒い液体が付着しているように見えた。  
彼女は確かここに来たとき小銃を携行していなかった。負傷者か、死んだ隊員の銃を拝借してきたのだろう。  
小銃は、敵か持っていた者の血にまみれていたのかもしれない。  
彼女はしょっぱなから不愉快な思いをしたせいか、  
しけっていると分かっているはずのセブンスターを一本、再びその艶やかな唇にくわえる。  




825  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:32:51  ID:???  


「どこでそんなもの覚えたんだい?」  

柴田は半ば呆れる思いで尋ねていた。  
こんな現代文明に汚染された異種族隊員など見たことがない。  
そんな柴田の様子に、彼女はまるで不良少女のようにぎろりと柴田に視線を転じた。  

「教育隊のあったクマガヤ基地だよ。生徒隊の悪ガキにもらったのさ。くだらねえニホンで少ねえクールなもんの一つだ」  

吐き捨てるように答えてから、彼女は暇つぶしのつもりか六四式から弾倉を抜き薬室を確認してから銃点検を始めた。  
小銃を操作する無機質な金属音だけが、しばしその場を支配する。  

「君は……他の隊員とは少し違うね」  

柴田が呟くと同時に、彼女は弾倉を元に戻した。  
弾を薬室にさらうスライドが閉鎖する、本能的に緊張を抱かせる鈍い音と、彼女の白い横顔と合わさって、まるで現実と幻想の狭間にいるような気分にさせる。  
彼女は肩に小銃を立てかけ、虚空を見つめた。  




826  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:33:40  ID:???  


「ああ。あたしゃ別にニホンがどうなろうが知ったこっちゃねえからな」  

彼女の言葉は、彼女以外に異種族隊員が口にしていたなら、思わず目を見開いていたことだろう。  
しかし、今までの彼女の言動や行動から、なんとなくだが予想していた言葉だった。  
柴田はどう反応すべきか少し迷った。  
この部隊は彼女とおよそ正反対の考えで戦っている隊員ばかりなのだ。そして、自分自身、そんな彼らを信頼している。  
だが、柴田は人が何を考えていようがそれはその人物の勝手なのだと思っている。  
今はあまり目立たないものの、干渉するのも、されるのも嫌いな性格なのだ。  
彼女は十分戦力として活躍したし、何より自分達を救ってくれた。  
その彼女が日本のことを嫌っていようがどうであろうが、それは些末な問題に過ぎなかった。  
自分は自衛官を三十五年やってきて、一度だって国のためだなどと口にしたことなどないのだ。  
自分が国のためだ、どうだとやってこなかったのに、彼女にそれを勝手に、そうであって当然と押しつけるのは横暴だ。  
柴田はそうなのか、とそれ以上深く詮索せず、曖昧な返事でその会話を打ち切ろうとした。  




827  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:36:57  ID:???  


「……くっくっ……それだよ、それ」  

彼女は喉の奥で笑う、あのどうにも好きになれない笑い方をした。  
何がだい、と無言で尋ねる表情の柴田に、膝をかかえ、くわえた煙草を指に挟んで言う。  

「あたしがニホンのために戦ってる、しいてあげる理由さ」  

彼女はどこか寒気を感じさせる雰囲気を瞳に宿していた。  

「おもしれえんだよ、ニホンは、いやニホン人は」  

柴田は息を呑む。  
自分の心中が、見透かされた、いや、覗き込まれたような気がした。  
面白い?  
異種族隊員のくせに愛国心がないのかと叱責しなかったことがだろうか。  

「あたしは頭よくねえからうまく説明はできねえが、  
なんつーか、ニホン人は、この世界のどこの国や種族とも比べられねえ。つまり似たものがねえんだ」  

彼女が再び唇に煙草をくわえる。  
そして、ゆっくりとまた虚空を見つめ、どこか恍惚とした表情で呟いた。  




828  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:41:05  ID:???  


「あたしは見てえのさ。滅ぶにせよ生き残るにせよ、ニホンって国の行く末が」  

柴田は今までの人生で、聞かなければよかったと後悔したことがいくつかあったが、今の彼女の話は何故かその一つに加わりそうな気がした。  
理解しようにも、本人以外にはけして理解されず、共有もされない考えや価値観というもの目の当たりにしたとき、  
人は大抵、不快に思うか、悪ければ恐れる。  
彼女の頭の中は、おそらく自分には微塵も理解できない。そんな気がしたからかもしれない。  

「……私以外の人間に、そんなことは口にしない方がいい」  
「心得てるさね……」  

ほんの一瞬だけ、彼女はその横顔に諦めと寂しさのようなものをよぎらせた。  
彼女は誰かに理解して欲しいのではないように柴田は思った。  
彼女はただ知って欲しかったのだ。  
自分という、奇怪な感覚を持った女がいることを。  
それが柴田には、理屈でなく感覚として分かった。  
誰にも知られずに生き、死んでいくということは、自分が存在していなかったことになってしまう。  
そんな、普通の、家族や親友といった自分を愛してくれる他者の存在のなかった者だけが抱く、途方もない孤独感と恐怖。  
自分がバディに、山下に出会うまで、ずっと抱えていた感覚だ。  
それが、彼女の横顔に現れていたように柴田は感じた。  
彼女はじっと自分を見つめる柴田に、ややあって意外にも狼狽したようなそぶりを見せた。  




829  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:44:24  ID:???  


「ま、知ったこっちゃねえとはいえ、嫌いでもねえから、なんだかんだで好きなんだろうけどな、あたしも。他の連中ほど狂信的じゃねえが」  

その弁解するような口調は、どこか少女っぽく、初めて彼女に対して柴田は親近感を抱いた。  

「くだらないんじゃなかったのか?  ニホンは?」  

和らいだその場に、柴田は思わずそう尋ねていた。  

「かははっ!  ああ、そうだぜ?  だがな、この世界はくだらねえどころか、クソみてえだ。まだニホンの方がましさ」  

彼女は、その和んだ雰囲気で、当たり前のように、笑いながらその話≠始めていた。  

「ガキん頃なんかさ、親から引き離されたあたしは見せ物小屋で毎日素っ裸にされて、汚え客の……」  
「やめろ!」  

突然声を荒げた柴田に、彼女最初ぽかんとしていたが、しばらくして自分が何を話していたのかに思い至った。  

「……ワリぃ。こういうの、ニホン人にはキッツいんだったっけな」  

柴田は何も言えなかった。  



830  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:51:11  ID:???  

彼女は、今度は目に見えて悲しげに空を見上げた。  
彼女の視線を追うように柴田も見上げる。  
日本では見たこともないようなきらめきが空に散らばっていた。  
だがその時は、満点の星々が高みから泥に汚れた自分達をみくだしているように見えた。  
汚れたお前達は、ここへ来ることなどできない。そう突き放されているような気がした。  

「……ま、だからかな。まっとうな戦う理由は。平和ボケとか悪く言うけど、あたしは、嫌いじゃない」  

ぽつりと彼女が呟く。  

「ああそうだ、うん……あたしみたいなのを笑ったり殴ったりしないで、泣いてくれる人がいる……ハッピーな国だ」  

柴田は何も言わなかった。  

「そういや、あんた家族は?」  

彼女でも気を遣うのか、黙ったままでいると、向こうから話題を振ってきた。  
しかし、今の自分にとっては、最も辛い話題だった。  

「……いない。天涯孤独さ」  
「……そうか」  

彼女も、その答えに何かを察したのか、それ以上は詮索してこなかった。  



831  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:52:21  ID:???  

二人の間に、不思議な空気が流れた。  
共通するものなど何もなさそうな二人だが、何故か、柴田は相手と通じ合っていると思った。  
そうして二人で空を見つめていると、やはり夜空の輝きが綺麗なものに思えてきた。  
本当に今自分達は戦争をしているのだろうか。  
そんな気分にもなってくる。  

「小さい頃にな、もう顔も覚えてねえんだが……母親に教えてもらった歌があんだ」  

いったいどれくらい時間が経ったのか、唐突に口を開いたのは、彼女の方だった。  

「歌?」  

「ああ。何故か、それだけは覚えてる。  
ハーピィは歌と踊りの種族らしいが、あたしはそんなものに親しめる環境じゃなかったから……。  
歌はその一つしかまともに歌えねえ。  
で、その歌はな、誰かを癒してやりたい時に歌えって言われたんだ」  

彼女は柴田を真っ直ぐ見つめると、気恥ずかしげに苦笑した。  

「聴いてくれるか?」  

「……ああ」  

彼女は六四式小銃の二脚を立てて傍らに置くと、月明かりの中で背中の翼を大きく広げた。  
月光に照らされ、淡い陰影が彼女の肢体を浮き上がらせる。  
それだけで、次の瞬間には幻と消えてしまっていても不思議ではないくらい、幻想的な光景だった。  
彼女は胸に手を当て、そっと息を吸い込む。  
そして、白い喉が、震えた。  






832  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:54:44  ID:???  






いつか見た夕暮れ  
二人見つめた故郷の夕暮れ  
遠く離れた異国の地に立ちて  
夢見るは幼きあの日の日の暮れ  
君と共に唱った故郷の歌  
今はもう思い出せぬ故郷の歌  
今夜はせめて夢で思い出そう  

遙かなる故郷の夕暮れ  
一人見上げた紅い空は  
君へと繋がる幻の世界  
いつか扉開いたなら  
いつかまた逢えたなら  
君が見つけた幸せと共に  
幻の世界で永久(とわ)に生きよう  
永久に守ろう君と共に……  






833  名前:  元1だおー  2006/07/20(木)  18:56:56  ID:???  


一羽のはぐれハーピィの歌声が、この高地に、この戦場の夜闇に染み渡っていく。  
子守歌なのか、愛の歌のなのか、郷愁の歌なのか、それとも、鎮魂歌なのか。  
それは分からない。  
ただそれはとこしえの優しさと、抗えない切なさを聴く者に与える歌声だった。  
それだけで十分だと思える歌声だった。  
柴田は、頬を伝う温かい涙を感じながら、小銃を抱いたまま眠りに落ちていった。  

その涙の理由は、分からなかったが、感じ取ることはできた。  

それは、生涯で女性に対して抱いた、ただ一つの愛しさ≠フ記憶だった。  


続く  



449  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  08:46:43  ID:???  



暗い路地を歩いていた。  
どこかから野良犬の遠吠えが聞こえ、所々に目に付くスナックなどの切れかかったネオンには虫がたかっている。  
演習の調整のために立ち寄った駐屯地から少し遠い、聞いたこともない街の歓楽街だった。  
遠い場所を選んだのは、同業者に会いたくなかったからだ。  
ただでさえ二十四時間拘束されているのに、外出先でまで顔を合わせたくはない。  
三曹になった頃、柴田は二四歳になっていた。  
一人での外出ができるようになり、柴田は絶対に同僚や上司と出かけようとはしなかった。  
血の気の多い戦闘職種ならこうはいかなかっただろうが、幸いにも柴田は志望通りの職種につくことができていた。  
安心はしたが、嬉しくはなかった。  
仕事は覚えてきたし、特に不満もない。戦闘職種の悲惨さに比べれば、だが。  
山下は北部方面隊の師団に配属されていった。  



450  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  08:48:08  ID:???  

また、自分は一人になった。  
寂しい、と正直に思う。  
入隊するまでは一人が当たり前だった。しかし、一度孤独を癒された人間は、再び孤独になったとき、反動が強い。  
携帯電話もない時代、一度離れた人間と親交を保つのは難しいものだった。  
その寂しさを紛らわせるために、こうして一人で飲んではうらびれた歓楽街の路地を歩くのが柴田は好きだった。  
歌舞伎町のような人混みと違って、孤独であることが実感できる。  
派手に彩られた雑踏より、自分の心を表しているような気がするのだ。  
その日も、彼は名前も知らない街の裏路地をあてもなく歩いていた。  
時代に取り残されたような、閉塞感の漂う場所だった。  
赤線の名残か、時折、路地裏からこちらを窺うような視線を投げかけてくる厚化粧の女達がいたが、彼は無視していた。  
いくら美しく着飾っていても女達は皆、三十を過ぎて見えたし、顔には生きることを諦めたような疲労を滲ませているか、  
心の奥底で全てを憎んでいるような雰囲気を醸し出していたからだ。  
自分が女だったなら、自衛隊に入ることもなくこうなっていたのかもしれない、と柴田はいつも思っていた。  
かといって、同情で一晩を共にする気はない。  
女に興味がないわけではないが、金銭の上に成り立つ関係というものに、どうしても冷めてしまうのだ。  



451  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  08:49:34  ID:???  

この高度経済成長の御時世、過激な学生運動も下火になり、  
就職の心配のない都会の自分と同世代の若い連中は男女とも誰彼構わず寝ているらしいが、  
柴田には自分とは違う人種なのだと感じていた。  
彼らは快楽のためという単純な目的があるが、自分が一線を越える他人に対して抱くものは警戒心か、期待だ。  
寂しさを、癒してくれるかどうかの、ささやかな期待。  
金の上の関係に、そんなものは成り立たない。  
自分でもバカバカしい理屈だと思う。  
じゃあ自分はこれからどうしたいのだろう?  
柴田は路地を歩きながら、いつもそのことを考える。  
今日も、とぼとぼと歩きながらそれを考え始めていた。  




452  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  08:51:09  ID:???  


「あなたは悲しい顔をしているわ」  

女の声だった。  
唐突で、要領を得ない言葉に、最初、柴田は自分に対することだと分からなかった。  
彼が立ち止まり、周囲を見渡すと、街灯一つ無い暗い路地裏から溶け出るように女の姿が現れた。  
肩にかかる程の長さの濡れ羽色の髪と、この時代錯誤な風景に似つかわしくない今風の紺のミニスカが印象的だった。  
膝下まであるブーツを鳴らしながら、ゆっくりと女が近づいてくる。  
露わな白い太股が扇情的だった。  

「振り返るほどの過去も、希望のある未来も見えていない」  

おかしな奴だ、とすぐに思った。  
言動もそうだが、こんな時間、こんな場所に立っているのだから、  
今まで無視してきた女達と同業なのかもしれない。  
が、少し雰囲気が違う。  
女は見れば見るほど不可解だった。  
女というより、少女だった。化粧と、この東京のディスコから抜け出してきたような格好で気付かなかったが、十七、八といったところだろうか。  
自衛官がその浮世離れした雰囲気のせいで詐欺や過激派の標的になりやすいことは理解していたが、  
この少女は詐欺師や、ましてや過激派には見えなかった。  




453  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  08:52:04  ID:???  


「あるのは、今目に見えている、この現実だけ。違うかしら?」  

屈託なくウインクする少女だが、その表情の奥には、柴田にしか分からない暗い感情が見て取れた。  
少女は、乾いていた。  
どこか仕事だからと無理をして笑顔や愛想を振りまいている。そんな心が透けて見えたのだ。  
家出少女か、そうでなくても何かしら訳ありなのは間違いない。  

「手相人相タロット占い。何でもござれな特別サービスが今回はなんとたったの千円で!」  

「他をあたってくれ」  

柴田は踵を返して足早にその場から逃れようとした。  
最近の若い女には頭のネジの外れたようなのが多い。面倒ごとはごめんだ。  

「あ、ちょっと待ってよ!?」  

甲高い声で追いかけてくる少女。  
ブーツの音が、路地に反響し、柴田は回り込まれて進路をふさがれた。  
少女は当惑気味の柴田の表情を見て、どこか小悪魔的だが、  
それが魅力でもある可愛らしい笑みを浮かべ、腰を折って彼の顔を下から覗き込んだ。  
化粧が少し濃いせいで気付かなかったが、澄んだ瞳だった。  




454  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  08:56:34  ID:???  


「あんたこの辺の人間じゃないでしょ?  雰囲気で分かる」  

「それがどうした」  

人を小馬鹿にしたような態度が気に入らなかったので、柴田は少し強引に彼女の脇を通り越す。  

「きゃっ!  あーもー。待ってよ、ねー!」  

なおも追いすがってくる少女に、いい加減腹の立ってきた柴田は、立ち止まって怒鳴ろうと思った。  
急に立ち止まった柴田に、笑顔で少女は立ちふさがった。  
そのじゃれるような様子があまりにも無邪気だったため、柴田は毒気を抜かれる思いだった。  
怒るに怒れない。そんな感覚が柴田を支配した。  
どうも、こういうタイプは慣れないな。  
柴田が軽く今夜ここへ足を運んだことを後悔していると、少女は興味に目を輝かせて柴田を再び覗き込んでいた。  

「ね、ね、お兄さん何してる人なの?  若いけど、学生ではなさそうだネ……ひょっとしてヤクザ?」  

商売の客引きだったのではないか?  
柴田は予想外の少女の言葉に一瞬呆気にとられた。  
見た目こそ色気に満ちているものの、何からなにまで、一貫性も落ち着きもない、まるで小学生のような少女だ。  
それに、こうして自分自身のことを他人に尋ねられるのは、考えてみれば初めてのことだった。  




455  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  08:58:54  ID:???  


「……自衛隊員だ」  

この時代、できるだけ私服の時は自衛官であることを明かさない隊員が多く、  
柴田もその一人だったにもかかわらず、彼はその時、驚くほど素直にそれを口にしていた。  
彼女なら、眉をしかめたり軽蔑の目で見たりしない。そんな気が、何故かしていた。  

「へぇ。政府のお犬さんなんだ」  

彼女は思ったことを全く包み隠さず声に出していた。  
遠慮のない奴といえば聞こえは悪いが、柴田はその時、むしろ逆に好感を抱いた。  
彼女にはおよそ、陰湿さという者が感じられないからかもしれない。  
面と向かっては言葉を濁し、飾り、本音を言わない人間ばかりの世の中で、彼女の率直さは珍しい。  
柴田はそう思いながら、彼女の瞳を見入る。  
それを怒りで睨んでいるのと思ったのか、彼女は目を逸らして少し逡巡の様子を見せた。  
柴田から少し後退り、そして少し上目遣いに、呟く。  

「……あたしの兄さんはね、セクトにいたよ」  

彼女がとった距離は、柴田の拳の届かないぎりぎりの距離だった。  
戸惑いや怒りを忘れ、ただただ驚きの表情で彼女を見る柴田に、彼女は汚い家屋に狭められた星空を見上げ、述懐するように話す。  




456  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:01:50  ID:???  


「あたしも、そうだった。あさま山荘がなければ、爆弾造って警察かお兄さん達のとこに放り込んでたかも」  

冗談のように言う彼女が、どこか恐ろしかった。  
過激派学生に自衛官が何人も標的となり、朝霞駐屯地では警衛勤務中の隊員が襲撃され殺害される事件まで起きていた。  
そのため自衛官が制服で外出するのは原則禁止にまでなっている。  
あさま山荘事件後の赤軍派の実態解明などにより急速に収束へと向かった学生闘争だが、残党はまだ根強く活動を続けていると聞く。  
まさか、彼女が!  
思わず身構える柴田を、彼女は、少し悲しそうに見つめた。  

「やっぱり、怖い?」  

柴田はごくりと喉を鳴らすだけで、何も言えなかった。  
額に汗が噴き出る。  

「……そうだよね、怖いよね」  

彼女はその無垢な瞳をそっと伏せると、柴田に背を向けた。  
とぼとぼと一人、暗い路地を歩いていく少女の後ろ姿は、どこか捨てられた猫のような寂しさを感じさせた。  
その後ろ姿が今の自分の姿と重なるような気がした。  
彼女は何故、自分に声をかけ、こんな告白までしたのだ?  
柴田は、理屈ではなく、何か他人事ではない雰囲気を彼女に感じ取った。  
……知ってもらいたかったのか?  
そう思い至った時、自然と声が出ていた。  

「今はそうじゃないのか?」  

彼女が歩みを止める。  
そしてそのまま、何かを自分自身で確認するように、ゆっくりと答える。  




457  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:02:43  ID:???  


「……人間ってさ」  

彼女が、柴田の方へ顔だけ振り向く。  

「楽園を目指して、必ず失敗するんだ。何千年何百年前から」  

その時の彼女の目は、まるで先刻までとは別人の、紛れもないテロリストのものだった。  
柴田は確信した。  
この少女は、純粋に世界同時革命だの、人民総決起だの、そんな自分からすれば狂気の沙汰でしかない夢物語を信じていたのだ。  
だが、それがあくまで過去形でしかないとも、思った。  
今の彼女の顔にあるものは、テロリストの名残のような鋭い眼光と同時に、信じるものから裏切られ捨てられた、哀れで、そして深い後悔の念だ。  

「今回も、そうだったんだと思う」  

再び歩き出そうとする彼女に、柴田はまた声を上げていた。  

「待てよ」  

今度はこちらから彼女の方へ歩き出していた。  
彼女が、どこか申し訳なさそうな、切なげにも見える表情で柴田を見る。  
自分の後を追ってきた、かつては怨敵だった組織の男に対して、どう接すればいいのか分からないように柴田には見えた。  
最初に見たあの屈託のなさを、彼女本来の魅力を、過去の亡霊が縛っているような気がして、柴田は彼女のことが何故か気の毒に思えてきた。  



459  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:04:39  ID:???  


「……自衛官は薄給なんだ」  
「え?」  

唐突な言葉に彼女が小首を傾げる。  
柴田は理性が、やめておいた方がいい、と呼びかけているのを無視し、一つため息をついて彼女に言った。  

「もう少し負けてくれ」  
「え?  何を?」  
「占いだ。千円じゃ自衛官には高い」  

彼女が目を丸くする。  

「公務員なのに?」  

「俺の月給聞いたら、そうも言えなくなるぞ」  

七十年代当時の二等陸士の月給、約一万五千円。三曹でも、似たようなものだった。  
高度経済成長で、物価も高騰を見せているというのに、  
自衛隊の賃金は一般社会と隔絶され時間まで止まっているかのように発足から変動が無かった。  

「……ぷ……」  

突然彼女が顔を伏せた。  




460  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:05:33  ID:???  


「おい……」  
「ぷ、あははは!」  

甲高い笑い声が、夜中の路地に響き渡る。  

「ふふっ……いーよいーよ!  なんかもう千円くらいどうでもよくなっちゃった」  

ひとしきり笑った後、彼女はぽんぽんと気安く柴田の肩を背伸びするように叩いた。  

「だが……それじゃあ商売にならないだろう?」  

「自衛官割引ってことで。ほら、やらしいのばっか放映してる映画館とかで時々あるじゃない?」  

「お前、変わってるな」  

「おにーさんも、自衛官には見えないケド」  

その時、不意に頬が緩んだ。  
……笑ったのって、いつぶりだったかな。  
思わず柴田は、少女の顔を見つめた。  
屈託のない笑みが、そこに咲いていた。  
思えばその夜が全ての転機だった。  
二人とも、何かを失ったり欠いたりしていたし、孤独を理解してくれる誰かを求めていたのかもしれない。  




462  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:06:29  ID:???  


そう、それはけして、幸せとは言えない青春。  

「うん!  手相でいうと、すっごい幸薄い人生歩みそうだね!」  
「な、なんだと?」  

女として、唯一愛した人。  

「……でも、色んな人と一緒に、一生かけて幸せを見つけていくと思う」  
「俺、人付き合い下手だぞ?」  
「若いのに辛気くさいなー、もー」  




これが、妻……京香との出会いの夜だった。  




465  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:09:20  ID:???  






「……お……起きろ……」  

女の声がした。  
京香?  
柴田は混濁する意識の中、自分と最も長くを過ごした女性を連想した。  
すがるような思いで、頭をあげる。  

「きょう……」  
「起きろっつってんだろ!」  

その瞬間、顔面に泥だらけの半長靴の靴底がめり込んでいた。  


携行食の缶詰をスプーンでつつきながら、セティスが怒り心頭といった様子でフェチカを睨み付けている。  

「まったく、畏れ多くも上官に蹴りを入れるとは!」  

当のフェチカはそんな彼に、朝飯のサバの味噌煮の缶詰をつつきつつ、サバの背骨をぷっと吐き捨てながら、同時に言葉まで一緒に吐き捨てる。  




466  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:11:00  ID:???  


「あたしゃ空自だ。陸自なんか知るか」  
「なにおー!?」  
「まあまあ、落ち着きたまえ」  

若い二人をなだめながら、柴田は昨晩みた夢のことを思い出していた。  
あの夢は、何故か自分の意志でみた夢ではないような気がしていたのだ。  
夢など、意志とは関係ない。だから夢という。それは分かっている。  
しかし、まったく脈絡のない、自分自身忘れそうになっていたあの時代、あの時のことをどうして今になって夢に見るのか。  
それがまったく分からなかった。  
フェチカの歌のせいだろうか。  
理由としては、それしか思いつかない。  
彼女はあの歌を、誰かを癒してやりたい時に唱う歌、と言っていた。  
癒し。  
あの夢、あの時代は自分にとって癒しになるのだろうか。  
家族のことを思い出すことが、今の自分にとって……。  

「シバタ曹長はおられますか?」  

思いに沈み、缶詰の底に残ったサバの身をつついていると、陣地の中に伝令らしき隊員が駆け込んできた。  





468  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:12:31  ID:???  


「私だが……」  

答えると、伝令の隊員はようやく見つけたといった様子で歩み寄ってきた。  

「動ける部下の方と司令部に出頭願います」  






部下と共に出頭した司令部は、日本人隊員がいなくなったせいか設備の割に人影がまばらで、どこかそれが不安な感覚を助長させた。  
奥に案内され、幕僚達が集合していたであろう卓上に地図を広げた部屋に足を踏み入れる。  
背後には分隊の部下、命令無視でやってきたレプのバディの竹内二士、そして空自の隊員であるフェチカが続いている。  

「柴田曹長以下……」  
「敬礼などいらんよ。時間が惜しい、適当にかけてくれ」  

上座にどっかと座る須田二等陸佐が、地図を睨みながら開口一番そう言った。  
部下と顔を見合わせ、かつて幕僚が座っていたパイプ椅子に腰を下ろしていく。  
最初、畏れ多くも幕僚の座っていた椅子に腰掛けるのを躊躇う者もいたが、  
須田が笑って、腰抜けの椅子には座りたくないよな、と言うと皆が苦笑を浮かべてから座った。  




469  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:13:33  ID:???  


「私に御用が?」  

最初は日本人隊員で残留した上級陸曹だから出頭を命ぜられたのかと思ったが、どうもそれだけではない様子だ。  
須田は顔を上げ、柴田を値踏みするように見つめた。  

「……君は何故ここに残った」  
「自分は帰っても居場所がないので」  
「自殺願望か?」  

突然発せられた須田の歯に衣着せぬ言葉に、即答できなかった。  
核心を突かれたような気分だ。  
柴田は、思わず須田から目を逸らす。  
自分が、ここに残った、理由。  
自殺願望。死に場所が欲しい。  
最初の頃は、そういった感覚も確かにあった。  
しかし、今は……  

「違います」  
「じゃあなんのために残った」  
「……部下を見捨てられない、いや、部下と共にいたかったからです」  
「ほう……」  

須田の眼光が鋭く柴田を射抜く。  




471  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:15:04  ID:???  


「部下の命と、自分の命……どちらが大切だ?」  
「それはどういう……」  
「答えろ」  

須田の瞳は、有無を言わさぬ雰囲気が宿っていた。  

「……部下の命です」  
「偽りはないな?」  

須田の質問は、一切の妥協や粉飾を許さないといったものだった。  
柴田は思わず息を呑んだ。  
自分は、今全ての曖昧な思いを整理させられている。そんな気がした。  

「当然です。スダ二等陸佐殿!」  

柴田が答えに窮していると、突然ことの成り行きを見守っていたセティスが声を上げていた。  

「戦闘前にシバタ殿はハッキリと我らの前でそう宣言されたのですから!」  

柴田が驚きの表情でセティスの顔を見た。  
いつ自分がそんな大それたことを言ったのか、まるで覚えていなかったのだ。  
何か彼が気を利かせて言ったのかとも思ったが、見ると、部下の全員が大きく頷いている。  




472  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:15:54  ID:???  


「大した人望だ」  

須田が軽く笑った。皮肉ではなく、心からの称賛の笑みに見えた。  
そして、すぐにその笑顔を消すと、卓上に両肘をついて話を切り出した。  

「その人望の力を借りたい」  

柴田を始め、その場の全員が、何かとてつもないことに自分達が巻き込まれようとしているのに気付き始めた。  

「残留した日本人隊員の数は十三人。内、幹部は二名、曹が七名、陸士が四名。更に言うと、曹長は君一人だ」  

須田が前置きのように話しを開始した。  

「現在我が方がおかれている状況は切迫している。  
徹夜で考えたのだが、敵がすぐに総攻撃に出た場合、持久戦に出た場合、両方を検討したが、  
どのみち勝てない。  
正面切って戦って勝つのはまず不可能だろう」  

指示棒を取り出した彼は、卓上の地図を示した。  
敵に完全に包囲され、追いつめられている味方の無惨な状況が事細かに図面化されたいる。  




473  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:16:49  ID:???  


「昨日の夜は南方の旧軍の司令官みたいに部下に丸投げして自決したい気分だったよ」  

自虐的な冗談だったが、誰も笑おうとはしなかった。  

「で、絶望的な報告ばかりの中で、一つ気になる報告を受け取った」  

柴田は本題らしき様子で柴田と、座ったその部下達を見渡した。  

「空自のハーピィと日本人脱走隊員を擁する前線のある一個分隊が、敵を一時的に敗走に追いやるほどの活躍を見せた、とね」  

随分と誇張されているな、と全員が顔を見合わせる。  

「私は、総力戦では勝てない場合の戦法、つまりゲリラ戦を考えている時にその報告を受け取った。  
そして私は一つの作戦を思いついた」  

須田が神妙な面持ちで自分に言い聞かせるように呟く。  

「この作戦を上手くやれば、もしかしたら、ここから脱出することが可能となるかもしれない」  

その呟きに、全員が思わず腰を浮かした。  
この絶望的な、玉砕しかないと思っていた戦局に、一筋の光明が見えたのだ。  





475  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:17:35  ID:???  


「そ、それはどんな作戦なのですか!?」  

セティスが興奮のあまり身を乗り出す。  
須田は、静かに答えた。  

「……敵の首都を、奇襲攻撃する」  

全員が、浮かせていた腰を脱力させた。  
そして、目の前の指揮官が疲労とストレスのあまり正常な思考をできていないことに絶望した。  
敵の首都を奇襲攻撃?  
この包囲された高地からどうやってそんな部隊を送り出すというのだ。  
強行突破はまず無理。ヘリが例え呼べたとしても、ヘリの飛行する音で潜入部隊の移動が敵に悟られる。  
そしてなによりヘリの燃料が首都まで保たない。  

「いい反応だ」  

須田がまるでその反応を予想していたかのように声を上げて笑った。  
いや、実際、予想していたのだ。  
彼は視線を下座の方へ転じた。  

「そこの空自のお嬢さん」  

突然自分を指され、意外そうな表情をしたフェチカが、すぐにぶっきらぼうに答える。  

「……空自のお嬢さんじゃねえ。フェチカ二等空士だ」  

「いい根性だ。たった一人で敵の大軍とやりあうだけはある」  

フェチカに腹を立てるどころか、気に入った様子の須田は、今度は竹内を見つめる。  




476  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:18:24  ID:???  


「竹内二士。君はここへ来るまでに敵に発見されたかね?」  

突然佐官に尋ねられた竹内は、慌てて記憶をたどる。  

「え……ええっと、たぶん見つかってません。霧も濃かったですし、フェチカの羽音は静かですから」  

何人かが、はっとした顔をする。  
須田はにやりと笑い、全員の顔を再び見渡した。  

「そういうことだ諸君。夜間であれば、決死隊の敵の包囲線越えは不可能ではない」  

どよめく隊員達。しかし、柴田だけはどこか冷静だった。  

「何か言いたいようだな?  柴田曹長」  
「決死隊≠ニはどういうことですか?」  

須田がまるで睨むような真剣な表情に変わった。  

「その名の通りだよ。たった十数名の部隊で奇襲攻撃するなど、成功する見込みも少ない。  
死を覚悟するくらいの気概がなくてはつまらん」  

その言葉に、部屋がしんと静まりかえった。  

「……だが」  

須田がどこか虚しそうに言う。  



477  名前:  元1だおー  2006/08/07(月)  09:19:00  ID:???  


「あくまで決死隊だ。特攻隊≠ナはない」  

自分が言っていることが、言い訳でしかないのを承知しているのかもしれなかった。  

「そのために、部下を死に急がせない指揮官が必要だったのだよ。曹長」  

須田の言葉に、柴田は皆から見えない卓の下で、静かに拳を握りしめた。  


<続く>