658 名前: True/False ◆ItgMVQehA6 04/06/12 17:43 ID:???
最初の星、その1(ゆっくりと貼り貼り)
「転移」この現象を巡ってはさまざまな議論が生じた。
近年の重力理論が暗示しつつあった並行世界の実在を示すと説きついでに超文明や超高度な異星人の存在を訴えるもの、
何故か転移元の某国による陰謀論とセットで語るもの、主にWebにおいてそのような主張がけたたましいが本編には関係ない。
「転移」から1週間。全ての宇宙資産を失ったこの部署には弛緩した空気が漂っていた。交流のあるレベルの上司が言うには
内閣府に属するある組織も同様で、もちろん米軍の衛星から受信したデータを元に海洋監視を行っていた海上自衛隊の
担当部署もただ呆然としていると言う。
もちろん、企業との折衝に追われて席を暖める暇もない部署もある。
合併前にNASDAと名乗っていた部署の一部だ。気象・通信・航法支援を行う多目的衛星の打ち上げは内閣の直接指示を
受けて急がされていた。なにしろ、この世界の空には自国の衛星が故障したときにレンタルできる宇宙大国の衛星など存在しないのだ。
日本の宇宙開発史上めったに無いことだが、バックアップを続けて打ち上げ万全を期すことになっている。
H-2Aを用いても1基しか打ち上げられない大型静止衛星を2基。
つまりH-2Aを続けて打ち上げるわけで、今だ確定した仕様を持たない大型ロケットの急速製作となれば上の階が騒々しいのも、
休憩所のウーロン茶が常に売りきれているのも当然というものだろう。
MTSAT-2の打ち上げはなんと、あと3ヶ月後とか。驚異的なペースだ。
この世界の形さえ判然としていないのに気の早いことだ。忙しさにかまけて気づいていないだけで、旧事業団の連中も
やっぱり茫然自失しているらしいな。
660 名前: True/False ◆ItgMVQehA6 04/06/12 17:54 ID:???
最初の星、その2
「……」
待て、今俺は何を考えた?
えーと。
オフィスを見渡してみる。放心した顔ばかりが並ぶ。いや、転移の前から表情の変わってない奴もいるがあれは
奴が考え事をしている時の癖で……両掌で大きな球体をなぞるように動かし……
「「形だ!」」
奴と俺は同時に大声を発した。居並ぶ面々の肩がぴくりと震える。となりと視線が合い、判っていないと判った。
「形だ、形だよ。俺たちはスプートニク以前、エクスプローラ以前に立ってる。誰もまだ、世界の形を知らない!」
「球面、あるいは回転楕円体の一部を為すことは判ってるぞ。飛行機から水平線を観測したデータは読んだだろ」
「そんなのは元の世界でも何千年も前から判ってたことだ。俺が言いたいのは、球の歪み、重力の偏りを」
その先、「スプートニクとエクスプローラの軌道の歪みから、地球は対称な回転楕円体ではなく
あちこちで歪んでいることが初めて判った」は俺の耳にも届かなかった。
在室の面々がいっせいに大声を上げたからだ。
* *
結局、ここまで半年掛かったことを考えるとMTSAT-2の緊急打ち上げを延期したのは正解だった。軌道投入以前に、
離昇段階でトラブルが起きたかもしれない。
俺は双眼鏡を下ろした。液体酸素タンクの外側に霜が真っ白に降り、ロケットの廻りにそれが生み出した霧が立ち込めて
いるのはこの距離から、肉眼でも見て取れる。
『アライメント最終確認』
『逃がし弁閉鎖』
『機内クロックに切り替え』
カウント・ダウンが始まる。重量超過で計画が遅延していたGXロケットを、敢えて改良せずに組上げた急ごしらえのロケット。
積荷は地上から観測しやすいように銀色に塗ったバルーンと、極超短波発信機だけ。
スプートニク1,2やエクスプローラ1よりもしょぼい、だがそれは
『0』
歓声は遅れて押し寄せてきた轟音にかき消された。
661 名前: True/False ◆ItgMVQehA6 04/06/12 18:11 ID:???
最初の星:3
最初の数周、どの追跡センターも衛星を発見できなかった。
小笠原局がビーコンを検知したのは打ち上げから402分後。これが衛星の4周目だと言うことが判ったのは翌朝のことだった。
衛星軌道観測からこの惑星の形が正確に割り出され、よもやと言うパラメータまでも修正された。
一部では推測されていたことだがこの世界は、もと居た宇宙の一部でさえないかもしれない。
重力定数が9.9825%大きく、そしてこの世界を為す惑星の質量は地球よりも21.2357%大きい。
だが、表面重力加速度はほぼ等しい。
ほぼ、と言うのは地球のそれよりもさらに偏差が激しいからだ。
地球より直径で15%、体積で50%以上も大きなこの惑星が、質量では21%しか大きくない。
それは密度が79%そこらしか無いことを意味し、金属質のコアが非常に小さいこと、そして地殻やマントル層の強度が異常に高いこと
を意味している。
この結果が公開されたとき、国土地理院を始めとして地震学や天体物理学の研究者からは激しい疑問の声が上がったが、
衛星追跡データに間違いはなかった。
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とりあえず今回はここまでです。
309 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/06 19:31 ID:???
知らぬ海(1)
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ホヒ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ホォ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
旧南シナ海(に相当する距離と方位を日本から離れた座標)上、日本標準時1900。
海洋観測艦「すま」に配食用意のサイドパイプが響き渡る。
「……あ……もうメシか……」
ウェザーマンが顔を上げると首筋がごりごりと鳴った。
観測室を見渡せば、「サンプラー」は端末に向かってボートを漕ぎ、「エコー」は宙を見つめて何事かつぶやいている。
その隣で「デプス」は床に横たわり死んだように動かない。
健在と言えるのは彼の他には「シーステート」だけだった。
「すま」の主兵装とも言うべき観測員はわずかに5人。全員が複数の技能を持ち、互いにカバーしあえるとは言え、
出航以来の連続勤務はあまりにもハードだった。
長期行動を常とする観測艦には客船並みの居住環境が用意されているが、それも今回は意味なしだった。
みな観測室にほぼこもり切り。
サンプラーだけは定期的に甲板に出ては乗員に手伝わせて海水採取を行っていたが、昨日からはヒキコモリ状態だ。
「転移」と共に内海、近海を除くすべての海図は無意味となった。
この世界に、そもそも日本以外に陸地があるのかさえもまだ定かでは無い。
出航前に出席した気象庁での会議を思い起こす。惑星気象学の見地からは、天体全てが海洋に覆われているならば
転移からの数ヶ月の間に数十の台風に見舞われているはずだと言う。
ウェザーマンもそう思う。航海を始めてから複数の低気圧に遭遇したが、西進して去ったそれらは距離だけが原因とは
思えない減衰を示した。
だから、低気圧を減衰させる存在、まとまった陸地があるはずだ。
本土の各種備蓄物資が尽きる前にそれを、それも程よい雨が降る、農業の可能な(あるいは採取可能な植生がある)
陸地を発見せねばならない。
漁場も見つけ出さねばならない。この世界の海に住む魚類や海生動物のいくつかはすでに捕獲され、摂取可能なことは立証されていた。
そしてそれらの望みは、今のところ絶望的なまでに乏しかった。
310 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/06 19:32 ID:???
知らぬ海(2)
日本本土の周囲に広がるのは、深度10000mを超える深海の連なり。はっきりとした海流もまだ発見されてはいない。
元の世界の海であっても海の生き物は陸と無縁ではない。陸から流れ込む栄養に富んだ河川水、陸岸に定着した海藻、
それらが底辺となって海の生態系を支える。
その構図はこの世界でも成り立つのではないかと言われていた。ネガティブ方向のデータだけはすでにある。
他の陸地の影響を受けない今の日本本土周辺には海洋生物が極めて乏しいことは確認されている。
だからといってまとまった陸地を発見すればその周りに豊かな海が広がっているとは保証するものは何もない。
今現在、見つかっているのは「新島」ひとつだけだ。深海底からそそり立つ巨大な独立峰の山頂。
それはそれで、少なくともこの世界にも火山活動があることは保証してくれたし、今行われている工事が進めば
航空集団の哨戒範囲を広げることにもなる。
だが……円弧を描いての哨戒では航続距離の3分の1進出するのがせいぜい、天気予報も行えない現状では4分の1でも危ない。
「陸地へと連なる海底」の証拠を見つけて哨戒方向を絞ることが必要だ。
観測機能を持つ人工衛星が使えれば一挙に解決される。だがそれも数ヶ月は先だ。
ウェザーマンは何十回繰り返し確認したか分からない現状が脳裏にリフレインするのを、ただぼんやりと感じていた。
観測室のドアが開き、室内を見渡した配食係が悲しげな表情に変わり、よろよろと立ち上がったシーステートがマニキュアの剥げた
指先でテーブルにつみ上がった記録紙を乱暴に除ける。
「配膳します」
「いえ、こっちでやるわ。ありがとう、お疲れ様」
力の無いアルトでそう答えたシーステートに、配食係が敬礼。足音が遠ざかってゆく。
ウェザーマンはふと気づいた。自分も機能停止状態に見えるのではなかろうか。せめて格好だけでもと勢いをつけて立ち上がり、腰の痛みに顔をしかめる。
311 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/06 19:33 ID:???
知らぬ海(3)
シーステートと手分けしてカレーを仕切り付きステンレスのトレイに直接そそぐ。
本来なら士官室と同様に個別の容器で配膳されるのだが、曹士と同様のトレイになっているのは、金曜でもないのに
カレーであるのと同じくこちらのリクエストによるもの。
唯一反応が返ってきたサンプラーと3人、無言の食事を開始する。
味が感じられない。
一昨日から定期報告を解除、任意で良しと艦長がはからってくれた。それも心に痛い。陸地の存在を示す手がかりを
全く見つけられないのは彼らのせいではないが、艦内に絶望感が広がっていることには責任を感じずにいられない。
さきほどもそうだ、観測室を見渡して帰った配食係はどんな表情を同僚に向けることだろう。一言も発することなく、
観測室から一歩も出ることなしに、艦内に今日の成果が広まるのが分かる。「今日も手がかりなし」と。
だがもう、冷静沈着な観測員という演技を行う気力が無い。シーステートもサンプラーも同様らしい。
そもそも、他の4人はともかく自分はどうだ?艦長が当初予定を超えてこの方位へ艦を進めさせたのは、低気圧の減衰に
関するウェザーマンの報告とも言えないコメントが理由ではないか?
艦長の判断は常に艦長が背負うもの、自分が気に病む性質のものではない。だがこの数日、ウェザーマンは観測室を出るのが怖かった。
危険を感じるわけではない、艦内に漂う雰囲気が身に、心に痛いのだ。
312 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/06 19:34 ID:???
知らぬ海(4)
「ウェザーマン」
だから、そのソプラノが聞こえたときにはスプーンを取り落としそうになった。
「何だ、エコー」
大きなヘッドセットを付けたエコーは相変わらず宙を見つめている。
「低気圧が消滅する場所がこの先にある、って所見は今も変わらない?」
「……ああ」
「サンプラー、海中生物の含有量に変動は無い?たとえば、プランクトン集団の存在を示すような」
「無いね。見事なまでの『海の砂漠』だよ」
もそもそとサンプラーが答える。
「シーステート、現在の海中音速は?」
「毎秒1520m、これは10分前の海面での数値。T、Z補正値はこの2日、有意変動なし」
「じゃあ、本当にこれは海底の山かしらね。あまり大きくないし、堆積物でほとんど埋まってる感じだけど……起きなさい、あんたの仕事よ」
言うとエコーはデプスを蹴とばし、椅子にぐったりと沈み込んだ。
313 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/06 19:36 ID:???
知らぬ海(5)
2時間後、ウェザーマンは久々に髭を剃り、士官室(兼食堂)に立っていた。
外れに終わった時のことを恐れて艦長室で、と提案したのだが艦長が認めなかった。ここに立つとその理由がよく分かる。
士官室に集った男女(戦闘任務に就かない海洋観測艦には、WAVEの進出が進んでいる)に爆発しそうな鬱屈と絶望、
それが蓄積されていることが分かるのだ。
だが、男性集団の(たまに女性も)視線を集めるのには慣れているはずのシーステートが時折言葉につっかえるのは、
雰囲気の力だけではないだろう。
シーステートの細い指がポインタを動かし、デプスをたたき起こして描かせた海底地形図をなぞる。
「……以上から、これは生物集団の作るゴーストエコーではなく実際の海山列だと判断されます。そしてこの海山列は
玄武岩質で構成されており、『新島』から連なるホットスポット痕跡であると推量されます。
そう、元の世界のハワイ−ミッドウェー諸島列、そして天皇海山列のように」
天体内部から湧き上がるマグマの井戸、ホットスポット。それは地殻を突き破り、火山を生み出す。
その上を一定の速度で地殻が移動すれば、孤島と海山の列が形成される。
「プレート・テクトニクスがこの天体で生じている、そういうことかね?」
航海長が要領を得ないと言う表情で問うた。
「はい。そして、こちらをご覧ください」
シーステートから視線で送られた指示に従ってプロジェクターを操作し、JAXAの電波衛星の軌道観測から得られた重力分布図、
気象観測から得られた推定天気図の遷移状態を重ねる。
士官室にどよめきが上がった。
「海山列の並びが示す海底プレートの移動方向、つまり南南西へおよそ2500km。ここに重力が強まる境界があり、
それは西進した低気圧が減衰する推定位置と重なります。……結論を述べます、海岸線がある可能性が高いと」
士官室が再び静かになるまで1分ほど掛かった。
314 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/06 19:36 ID:???
知らぬ海(6)
「往復すると2700海里か……燃料も糧食もちと厳しいな」
「補給艦を要請しますか?」
副長の問いに艦長が首を振る。
「時間が掛かりすぎる。自衛艦隊司令部に、リンクはまだ繋がるか?」
「600海里戻る必要があります。音声交信は現在位置でも可能」
通信長が即答し、艦長は決断を下して解散を命じた。
集合時とは打って変わった足取りで乗員たちが勢い良く退出してゆく。
航空集団に功を(あるとして)譲ること、自分たちの目で成果を確かめられないことには誰も不満を感じた様子が無い。
海洋観測艦とはそういうものだ。
説明に使った機材を片付け、シーステートに手を借りて引き上げに掛かる。
「ああ、君らへの指示を忘れるところだった」
呼び止められ、可能な限りの素早さで(つまり、老人のようにゆっくりと)振り向く。
「明朝まで休みたまえ。命令だ」
艦長の暖かな笑みに、ウェザーマンはその場に崩れそうになったがそうも行かなかった。
スイッチを切ったようにへたり込んだシーステートの軽い体をウェザーマン一人では支えられず、
駆け寄った副長と二人で運び出さないといけなかったから。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
今回は以上です。
388 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/08 15:59 ID:???
連続投下、いきまーす!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
知らぬ海(7)
「起きろや起きろ、ハンモックを縛れ、縛って片せ、縛って片せ〜、っと」
いつものとおりにベッドに横たわったまま、ウェザーマンが起床ラッパに合わせて口ずさむ。
ただし音程が完全に外れている。見事なサイドパイプの音色も台無しだが、サンプラーは今日は文句を言わないことにした。
考えてみれば今航海において、居室で目を覚ますのは久しぶりのことなのだ。ウェザーマンの「目覚めの歌」も決して心地よくはないが、とりあえず今日は不快ではない。
サンプラーは素早く作業服に着替えると居室を後にした。観測員は朝の海上自衛隊体操は任意とされているが、出来る限り出ることにしている。
ゆるやかなうねりを追い越して進む「すま」の舷側通路に出て朝日に照らされた海面を眺めないように視線を足元に落とし、ゆっくりと歩きながら潮風を吸い込む。
いつものとおり、背筋に戦慄が走る。
389 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/08 16:00 ID:???
知らぬ海(8)
無臭の海、それは元居た世界でも外洋では当たり前のことだと思っていた。いわゆる「海の香り」とは実際には磯や岸壁に繁った海藻の香りで、外洋ではしないものだと。
だが、違う。
元いた世界では「船縁の香り」がかすかに漂っていたのだ。船底に生える藻、乾舷にうち付けられたプランクトンが乾燥して死んで行く時に発するその香りが。
今、見知らぬ海をゆく「すま」にその香りはない。
出航以来続けてきた海水サンプリング作業への立会いに耐えられなくなったもう一つの理由、海面を見下ろす。
さんさんと降り注ぐ恒星光に照らされて光る艦首波、白く砕ける航跡の外に広がるのはかすかに青を含んだ、黒い海。それは深海に広がる永遠の闇を、澄み切った表層海水を通して眺めていることを意味する。
元の世界の「黒潮」と同じ。栄養物とプランクトンをほとんど含まない、澄み切った「海の砂漠」を通して覗き込む深淵の色。
あるいは背筋を凍らせるのは高所恐怖に似たものだろうか?
エコーとデプスはこの、深淵の上に宙吊りされたような状況を指して「音が素直に響く綺麗な海だ」と言う。シーステートとウェザーマンは説明を理解はしても、意味を「感じ」はしない。
首を振ったところで作業甲板に出た。
彼と戦慄を共有するもの、「すま」乗員たちがすでに集っていた。
390 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/08 16:01 ID:???
知らぬ海(9)
「結局、今回は陸地を見るところまでは行かないことに決まりました」
体操を終え、士官室へと向かう通路上。観測員居室の前で立ち止まったサンプラーに航海士が話しかけてきた。
「気象、海象が予測しがたい状況で、航続距離には余裕を大きく残す必要があることは理解できます。異存はありません」
マクロスケールの気象、大型低気圧の動向くらいならば出航以来定期的に放出してきた観測気球からのデータなどを用いてウェザーマンが予測してくれる。
もっと大きく高速の、たとえば数万トンの高速カーフェリーなどで航っているのならそれでも行動できなくはない。
だが1000トンをわずかに超えるサイズでしかない、そして平水で15ノットしか出せない「すま」には論外だ。
「海岸線の存在については、空自が確認してくれます」
少し残念そうに航海士が付け加えた。
「……え?」
ちょうど居室を出てきたウェザーマンとデプスが揃って当惑の声を上げた。
空自の保有する一番航続距離が長い機体でも海自航空集団のP−3Cに比べればずっと劣ると知っていた。当然、P−3Cが行くものだとばかり思っていたのはサンプラーも同様だった。
「新島の滑走路がまだ未完成ですから。P−3Cを燃料満載で離陸させることは出来ない、しかし空自の偵察機なら燃料過積載状態でも離陸できる、まぁそういうことです。もっともそれでも航続距離ぎりぎりで、恐らく高高度からレーダースキャンして引き返すことになるとか」
航海士が事情を簡単に説明したところで「すま」の短い舷側通路の終点、艦橋構造の側面にたどり着いた。
ハッチドアをくぐり、士官室へと足を踏み入れるとすでに朝食の準備が整えられていた。
ノリの効いたテーブルクロスなど見るのは何日ぶりだろう? 士官と同じく給仕付きの食事を摂るのも何日ぶりだろうか?
先に着席していたシーステート、エコーと同じテーブルに付き、会食のオーナーつまり艦長の到着を待つ。
391 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/08 16:01 ID:???
知らぬ海(10)
「……というわけで西進を続けてきたが、2日程度この周辺海域にとどまり海底探査の検証を重ね、帰路につく。諸君の努力に感謝する」
さきほど航海士が教えてくれた内容に、今後の方針を付け加えた艦長の挨拶が終わり、観測員一同はいっせいに食事に取り付いた。
昨日までの味が感じられない食事とは大違いだった。外に広がる無気味な海は「すま」を絶え間無く揺らしてその存在を主張しているが、サンプラーはそれをひとときは忘れることが出来た。
「JAXAの衛星……それでなきゃTRDIの高高度無人機。なんでも良いや、広域観測手段があれば楽になるんだがなぁ」
行儀わるくパンを味噌汁に浸しながらウェザーマンがつぶやいた。
「それは航法としても同感です。……それ、止めたほうが良いですよ」
テーブルの向かいから航海士が同意を示し、ついでに注意する。
探査/観測衛星打ち上げが遅れている理由は3つある。
まず予算とリソース。
この世界について知るにも、日々の暮らしを支えるにも衛星は絶大な意味を持つ。
問題はその準備が整うまで日本という国が持つか判らないこと、よって資源の統制が厳しく、また優先順位がさらに高い課題が山積していること。
第2に、この天体の重力場は地球のそれよりも大きく、H−2Aロケットを持ってしても大型のMTSAT−2衛星を静止軌道に上げられないこと。
そして第3に、機能切り詰めをめぐる議論がまとまらないこと。航海士の言葉がそれを裏付けている。
スペックダウンを余儀なくされるMTSAT−2には何を残すべきなのか?
今ここで和やかに食事をしている面々の間でさえ、意見はまとまるまい。
ウェザーマンとシーステートの意見は同じだろう。今穏やかな表情で茶を啜っている航海士は異議を唱えるだろう、恐らく全ての船乗りが航法支援機能の削除には絶対反対の立場を取るだろうし、デプスやエコーに聞けばまた違う意見が返ってくるに違いない。
サンプラーにも違う意見がある。
議論がまとまる前に地上保管されている衛星の部品が寿命を迎える可能性もある。そして、100パーセント国産の実用衛星など今までほとんど例が無い。
今回を逃せば数年、あるいはもっと遠い将来まで実用衛星を打ち上げることは出来ないだろう。
392 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/08 16:03 ID:???
知らぬ海(11)
朝食を終え、サンプラーは後部作業甲板へ向かった。
観測機材の吊り下げ、揚収を行うデリックの隣には出航前に追加された小さな、真新しい船室。
壁面に接続された太いダクトとBCフィルターがその用途を物語っている。
彼ら観測員はこの部屋に立ち入ることは出来ない。「すま」乗員の一部、各種サンプル採取作業に
従事するスタッフと、海洋生物に接触した機材を一定期間隔離するためのものだった。
今の所、人体に害を成す海洋微生物の類はまだ見つかっていない。だからと言って存在しないと
断言することは出来ない。延々と潮風を呼吸して航海を続けてきていることを思えばすでに意味が
薄れている処置とも思えるが、艦長は隔離室の運用方針を動かすつもりは無いと明言している。
パスボックスの外扉を開き、トレイに果物を載せてしっかりと閉じる。エアシャワーが自動で動作し、
かすかに騒音が伝わる。規定時間動作したエアシャワーが停止すると内扉が開かれて果物が
隔離室の中に消え、代わって最新の海水成分データを収めたディスクが載せられる。
同じ動作を経て、「クリーンに」なったディスクがサンプラーの手に納まる。
窓の傍に移動し、ディスクを手に一礼。「採取作業の度に24時間」の隔離を義務付けられた
スタッフが窓ごしに果物を掲げ、嬉しそうに笑った。
隔離室にLANを引くように進言しなくて良かった、サンプラーはつくづくそう思う。
午後遅く、空自の偵察機が陸地を確認したとの通知が艦内をどよめかせた時には、
データ受け取りの時間ではなかったが隔離室の窓越しにガッツポーズを交わした。
393 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/08 16:03 ID:???
知らぬ海(12)
2日後、サンプラーは己を罵った。エコーが何か言ったが耳には入らない。舷側通路を疾走し、隔離室のインターコムを入れる。
「鉄イオンと溶存酸素の数値、これで正しいのか?!」
『指示のとおり、1サンプルあたり11回測定のσ数値です。測定機の較正も規定どおりに添付してありますが、異常ですか?』
「……次のサンプリングを繰り上げてくれ。今回は魚類捕獲ネットも下ろしてもらう」
何事かと集まってきた、次のサンプリングを担当するスタッフが顔をしかめる。
通常は4時間ごとにサンプリングを行い2名ずつ隔離室に入る(そして2名が24時間隔離を終えて出る)のだが、魚類の捕獲と分析を行うとなれば4名が、すでに定員を収容している隔離室に押し込まれることになる。
「すまない。だが、急を要するんだ」
次いで艦橋へ繋がる無電池電話を取り上げる。指示と要請を済ませて観測室に戻ると、腰に手を当ててエコーが出迎えた。
「集中してるときに大声出さないで。いつも言ってるでしょう」
「すまない」
謝ってばかりだな、サンプラーは内心苦笑した。
「それと、いきなり船足を落とさせたのはどういうこと? 海底が『ざらつき』始めたっていうのに」
「たぶん、それと同じ理由……いや原因だろうな。海水の成分が変わりつつあるみたいだ」
394 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/08 16:04 ID:???
知らぬ海(13)
2時間後、再び作業甲板に立ったサンプラーはハンドリングボックスに手を差し入れた。
透明な箱に横たわる50cmほどの魚に、遮蔽手袋に包まれた両手を近づける。ボックスの床面からメスを取り上げ、ためらい無く内臓を摘出する。
写真撮影。ついで、胃と思われる内蔵を切り開く。
肩越しに覗きこんでいるシーステートが息を呑んだ。
「カニ……?」
「の、ようだな。かなり消化されてるが。……さてと。該当甲殻類の脚は細く、遊泳に適しているとは思われない……」所見をレコーダに吹きこみつつ解剖を続ける。
「当該甲殻類を捕食した魚類は流線型の外観から外洋回遊魚と思われるが、サイズおよび鰭の発達、筋肉の量から見て高速性とは思われない。
よって、移動を助ける海流が現在位置近くを流れているか、さほど遠くない海域に沿岸性甲殻類が生息するものと推量される、と。
また海水中の鉄イオン含有量の増大、溶存酸素量の低下からも海洋生物が群生する海域があるものと推量される」
顔を上げ、無電池電話に尋ねる。
「エコー、海底の様相が変わりつつあると言うのは間違い無いか?」
『デプスも同意見。ここまで例の海山列を除くと北太平洋みたく真っ平らだったけど、南の方の海底は、あちこちに隆起が見える』
「どう見る?」
「低気圧の動向からは、所見は変わらない。まとまった陸地があるとすれば南西へ2000kmばかり離れたところだ」
ウェザーマンの言葉にシーステートがうなずく。
「だとすると、マクロな気象に影響を与えない程度の島か。デプス、どう思う?」
『大陸の周辺に島があっても驚かない。プレートは大陸に近づくほど抵抗を受けて、歪む。海底プレートにヒビが入れば噴火もするだろうさ』
395 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/08 16:05 ID:???
知らぬ海(14)
報告を受けた艦長は「すま」幹部に沈黙を命じ、瞑目した。
「南進する。ただし最大で2日、600海里だけだ。そこでターン、日本本土へ帰還する」
5分ほどの沈黙の後、艦長は命じた。
予定を往復1200海里超える航海は、本土帰還時には燃料と糧食がぎりぎりになることを意味する。天候により船足が鈍れば危険でさえある。
南アメリカの南端を探すマゼランの心境を味わうとは思わなかったな。
艦長はそう内心でつぶやき、自衛艦隊司令部への通信文を作成するように命じた。現状報告と合わせ、帰路に出迎えを配置するように要請する内容だった。
新島への輸送で忙しい補給艦をこの一隻のために動かす?
どう対応するかは自衛艦隊司令部の決めること。だが、空振りに終われば処分は免れまい。今や、艦艇燃料の一滴は血の一滴だ。
この決断には艦長以外の誰も関与していない、それは航海日誌の複数の署名とログによって確認される。
延長航海の1日目が過ぎようというところで隔離室の状況が限度を完全に超え、魚類捕獲が中止された。
2日目の朝を迎えても、茫漠たる黒い海はその様相を変えようとはしなかった。
396 名前:True/False ◆ItgMVQehA6 :04/07/08 16:07 ID:???
知らぬ海(15)または「豊かの海」(0)
変針点到達予定を4時間後に控え、艦長が再び艦橋に上がった。
『艦橋、観測室』
「観測室、艦橋だ」
『水温上昇しつつあり。針路前方に音響反射らしきもの』
「見張りを厳となせ」
15分後、マストに配置した見張り員とレーダー員から同時に報告が上がった。
『前方、10海里に砕け波!』
手空きの乗員がいっせいに上甲板へ走り出て、目を凝らす。
30分後、それは数十の眼によって目視確認された。砕け波をまとわりつかせた弧状の珊瑚礁。ほとんど海面と同じ高さで、レーダーにもはっきりとは映らない。
だが、礁の向こうに広がるラグーンの、鏡のような水面は眼に鮮やかな青だった。青の連なりをところどころで立ち切っているのは真っ白い砂州。
出航から1ヶ月、本土帰還まで目にすることは無いと覚悟を決めていた陸地。
ほどなくして、艦長はこの航海でもっとも辛い決断を下した。
上陸を行うのはサンプル取得要員の4名のみとし、短艇の通過できる水路が日没までに発見できなければ中止とする。
そこで言葉を切り、付け加える。
「本土へ取って返して、次はまっすぐにここへ来よう。全員分の防護服を陸自に借りて、テントも持って」
歓声が「すま」を揺るがした。
後に接触がもたれた大陸の住民が南方諸島と呼ぶ島々の最北端、「須磨環礁」と命名される環礁からの帰路は食事に制限が掛かる辛い航海となった。
観測のために船足を落とすことも出来ない、淡々と一定速度で走るだけの航海。
貧相な食事を満ち足りた気分で終えたサンプラーは舷側通路へ出て、黒い海を眺めた。
もう不気味には感じない。この海は、あの豊穣の海へと連なっているのだ。